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76. ビリー・ハズ・ゴーン(D.ホッパー脱線追悼) [ことば・映像・音・食べ物etc.]

(コノ回は3週間に渡って細切れに書き足していました。前後脈絡の無さ&枝葉&脱線はいつものことですが。)

最近は実にツマラナイ毎日を淡々とこなしている。繰り返すばかりの毎日の営みだ。

病気になったり怪我をしたりすれば、この地味な繰り返しが営めていたこと自体がとても有り難かったことだと知るだろうに。否、年頭に右手を手術した際にそれを思い知った筈だった。

なのに非常につまらない。そして肉体の疲れが大き過ぎる不満が募る。こうして手術後の不自由さ等とっくに忘れて、感謝の感覚は麻痺しているのかも知れない。

 

ツマルか、ツマラヌかもー自らの “意識次第” なのだろう。しかし、糧を得るだけが目的の労働では、今の御時世は “スピード” ばかり求められるので、ワタシの場合は1言で云えばツマラナイと成る。元来、所作も話し方もすべてがノロマなワタシにとって、これは辛いことなのだ。関わる性別や生物問わず、ワタシはスピーディさを求められることが一番困るのだ。と云うことは...「困るシゴトに携わっている」ということか


でもさ....此所まで無計画に生きてきた結果、己で立てない者はとりあえず雇われの身で頑張るしかない訳で。この社会で生きてゆく上で必要な何かを、しっかり考えることから逃げて来たワタシの脳味噌... 

最近はこのノウミソって奴を、長いこと或る部分しか使って来なかった為だろうか?そして考えない様に努めている事柄が多いからだろうか? 腐ってスポンジ化が進んでいるかも知れない...

 

          *

 

胸の辺りが寂しい...。けれど仕方無い。セイカツしていかなくてはならんのだから。実に「仕方無い、仕方無いさ」で日々が過ぎてゆく。時間だけが毎年、どんどん加速してゆく様だ。

とうとう自分の年齢を考えたくなくなってしまったよーと云うか、尋ねられた際に言いたくなくなってしまった。

恥ずかしいジンセイ” なんてものがあるのか...果してそう感じているのか?ワカラナイけれど、確かに自分には自信満々という部分がまるで無い気がする。何もかもが中途半端で、辛うじて世の中に引っかかっている与太者みたいな気がする。

でもその点は、目を閉じてみればー蜘蛛の巣に引っかかってジタバタしているカゲロウの自分ーなんかが浮かぶのは、コレ又未だに世を拗ね儚んでいるフリをしながら “風来” の血ばかりを意識している吾が脳味噌の成せる業なのか...

とにかく出会って直ぐに「いちいち年齢を聞かないでくれ」と思ったりする。

何につけ足りなかったり、幼かったり、逆に老生していたり?、マァそこで目の前に居るのがワタシなんだから、「勝手に感じてくれよ」って思うんだ。出来れば皆、もう少し胸の奥辺りで!

 

 

太古の昔から多くの歌が求める愛を歌い、無くした愛を歌う。でもこの毎日の営みは、安っぽい商業曲歌は聴くに耐えない正しく “愛が無い日々”  だ。内心、何か見えない敵と戦っている様な気もするし、否応無く従ってひたすらこなしている気もする。

かといって鈴木亜紀さんのー旅人感覚というか風来の匂いというか“ふたしかさ”というかーが滲み出ている曲を聴くのも、チャランゴやバンジョーやフィドルやー何故か成らずワタシの内側を遠く遠くへと向かせる異国の音色を聴くのも、此処のところどうしても避けていたりする。聴くと辛くなりそうだから。此処では無い何処かにこれ以上行ってしまいたくなっては困るから。

知ったその時点から絶対的に染み入って来る音楽、そして自分の風来の血が呼応してしまう音楽は、薬にも毒にも成るといった感じで.... これも又、意識次第なのだろうか...

 

         *

 

そう云えば今日、久し振りに近所の猫が遊びに来た。シーチキンの缶詰の残り滓に釣られてやって来た。ちゃんと飼い主が居るのに、このボロアパートにしっかり通って来る “タンゲくん” 達の一匹だ。(片山健の絵本『タンゲくん』は最高だよ!)

ワタシはシーチキンが好きで、わざと雑に食べ残してイヌバシリにいつも “新しい残り” を出しているから、そして缶はいつもピカピカに奇麗に舐め尽くされているから、いつも彼等は通って来てるのだろうとは思う。(この3年で顔見知りは6匹で、2匹が昇天。生き残っている内2匹がかなり人懐っこく、1番若いメス一匹は気が向けば部屋に上がり込んでくる。)けれど、最近は生憎こちらの留守が多く、随分お逢い出来なくて寂しかった。

今日は20分程じっくりおつきあいした。触りまくった。触らせてくれた。今日は彼女もいじられたい日だったんだな〜。猫の我が儘は可愛い。見ているだけで和む。これも愛なのか?

 

またもや本題とは遠く、ぐだぐだ書いてしまった。

今更だけど...今回のブログは一体何週間に渡ってぼちぼち書いてきたのか忘れてしまった。しかしどうしても書きたくなって、言葉にしておきたくて、懸命に書いた。無い筈の余暇時間を、まるで出涸らしの珈琲を絞り出す様にして産み出してまで書かなくては、申し訳が立たない〜位な気持ちで。

「一体誰に申し訳が立たないのか?」って? それは、彼にさ。旅人ビリー” こと「D・ホッパー に」だ。

君はカーボーイハットを被ったビリーを知ってるかい?いや...僕だって僕の知っている彼しか、僕の感じた彼しか知らないんだよ。

いつだってそうなのさ... 僕には何にもハッキリとはワカラナイ....どんどんワカラナイ.... ワカラナイんだけれど、ワカラナイなりに、そう...きっと“一所懸命に好き” だった証を一寸文字にする苦労を惜しまず此所に残しておきたいーそんな気持ちなんだな。

“一所懸命に好き” な対象が、生きているニンゲン様だとー「不適切な表現がありました」なんて、解釈の相違から、つまりは ”プライバシーの侵害” って網に引っかかってしまいそうだけど、対象が音楽や映画や猫や花や海山だと、まあその中の誰からも怒られないからね。だからどんなに好きか、大好きかを、自分なりの言葉色で塗ったくれる。塗ったくって、恩返しって訳!

今回はD.ホッパーに恩返しって訳!

 

いつもの事ながら乱暴な書きっぷりや、繋がりのワケワカラナサは、どうか大目に見て欲しい。そうさ...解らなければ酒か葉か、アンタがブッ飛んでから読んで貰えたならばいいんだがねえ〜

きっとビリーはこう言うだろうよ。

「ヘイ、ジョー! 一本点けようじゃないか。紫の煙をさ。」

 

       *

 

とうとう逝ってしまったデニス・ホッパー。パソコンに無料配信されるニュースで亡くなられた翌日の朝に知った。癌を患っていたことは以前から知っていたけれど、もうこの世に居ないなんて、やはり悲しいことだ。彼の波瀾万丈の人生... 細かい事はいずれもメディアを通してのゴシップネタ的情報しか知らない。彼についてマニアックにはそう多くは語れない。どこかで誰かが評論的な講釈は垂れてくれるだろう。ただワタシは彼が好きだったのだ。相当に好きだったのだ。

 

過去ワタシは、自らの作品ファイルの最終頁のプロフィールの隅に、ステイタスとして “あずき,生クリーム,きしめん以外の麺類” と記し、それに加えて “大塚寧々,笠智衆,デニス・ホッパー” と書き加えていた。

この3人に共通点等無いかも知れない。ただひたすら好きなだけだ。ソコをコトバで表現は出来ても、所詮コトバは言の葉っぱだ。儚くも有る。胸の奥に在るものとは、いつだって必ず等しくはない。

なんとなく解って貰えるだろうか、この感覚。“好き” に理由は無いから、単に並べてみたのだった。食料を先にもってきた理由は在るんだ。「生きてゆく上では、空気や水の次に、タイプの女優より食べ物が必要」と認めた上で、「ワタシは芸術の端くれで制作しています」としたかった訳で。当時、周囲に芸術家気取りが多かったから、何か躍起になって抵抗していた気がする。唯ひたすら己に集中すれば良いものを、今思えば随分無駄な抵抗だった。労力は一点集中させた方が断然いいに決まっている。

けれどやっぱり...."このパンの切れ端を食べるか?練り消しにするか?" ーそんな状況に追い込まれたならば、きっとワタシは食べるんだろう。

パンや米や蕎麦や根菜や葉菜等、何より水や空気や、なんというか普通の食材やアタリマエに在ると信じ込んで疑わないものを、「美味しい」と感じられる感覚が、色んな意味でとても大切だと思うのだ。

 

ちなみにこのステイタス欄を読んで戴いた方の中、喜んでココに食いついて来てくれる楽しい輩はそれなりに居たけれど、あずきや大塚寧々や麺類が話題になったとしても(笑)、D・ホッパーを鋭く突いて来る者は、そう居なかった。まあ、"そういう出逢いには巡り逢えなかった今までの私のジンセイ" ということだ。

 

でも “好き” とは 現在も“過去形“ じゃない。『イージー・ライダー』を監督し、ビリーを演じたホッパーに、今は無き映画館『三鷹オスカー』で出逢って以来ずっと好きだったし、今も逃れられない位に好きな俳優なのだから!

ワタシにジミヘンを、グラスを、革ジャンを、長髪を教えた文化の一つが正しくこの映画な訳で。サイケデリックな中期ビートルズのみならず、この時期の “アメリカン・ニューシネマ” は、ワタシのジンセイを決定的に誘導してしまう刺激に満ち溢れていた。

ワタシは学校が嫌いで早くに勉強をしなくなって、でも一つだけ良かったことがあるとしたならば、10代で映画やロックの洗礼を受けたことかも知れない。しかし困ったことに、ソコから20数年経った今も内側は成長していないのに、外側だけは着実に歳を刻んでゆく...Oh,マイ・ガー!!

 

話戻してアメリカン・ニューシネマ。『タクシードライバー』しかり『明日に向かって撃て!』しかり『カッコーの巣の上で』や『俺たちに明日は無いetc...。そういった生涯忘れられない映画たちに、ワタシは高校時代に出逢っていてとても良かったと思っている。後に色んな映画を観る様になっても、どうやら自分の内側のベースにはこの辺りの映画たちが根を張っている様に思う。どれも決してハッピーエンドな終焉ではない話が多いのだが、何と云うのか... ドウニモナラナサや、哀しさや憂いみたいなものや、凛としたものや儚さや...上手く言えないが、そんな学校や家庭では教わることの出来なかった何かの多くを、この辺りの映画が教えてくれた気がする。

作品に出逢う時期は重要だ。良いとか悪いとかの話じゃなく、後の人生に多大な影響を与えたりする。それは映画だけじゃない。音楽や絵画、否、先輩や教師や彼氏彼女...出逢いの時期一つで人生の歯車は大きく変わるもの。でもそれをコントロールは出来ない。扶養者や己が管理制限したとしても、出逢うときは出逢う。まるで隕石に衝突したみたいに!

娘の誕生日にはウィノナ・ライダー主演『17歳のカルテ』と、欲しがっていたサイケな刺繍入りのGジャンを贈った。「物は要らない」と言い切る娘がとても喜んでくれた。

 

出逢いは運命だ。

運命は引き寄せられるという方も居るようだが、己一人ではドウニモナラナイ運命もある。ここで少し私事を書いてしまいたい。

実は...離れて暮らす娘には新しい父親役が居る。数年前から居た訳だが、ワタシは年が明けてから元妻からの長いメールで知らされた。そして今年から母娘の家に男が越して来て、同居が始まったそうで。

時々ワタシに会いに来ても、言い出せなかった娘を思うと切ない。そして、その者と娘は折り合いが合わないらしいし、母親つまり元妻に対しても「大嫌いなニンゲンに変わってしまった」と言い出した。

本人が薄ら涙を浮かべ静かにそう教えてくれるのだから...ワタシにとっては娘との関係という意味では有り難くも在り、併しだからこそ心配であり、胃が痛い。年が明けてからずっとこの点に頭を抱えてきたのだった。

でも元々が無い頭だから、抱えてもろくな答えは見つからない。ワタシは不器用だから、2回過呼吸の発作を起こして、食欲というものがまるで判らなくなって... まあどうにか立ち直って(っていうか立ち直るしかなくて)己の健康体制を見直しつつ、2月に仕事を変えた。二度と携わるまいと誓った肉体労働に戻った。他の何もかもがストップしてしまう仕事に。とりあえずやれることをやって、腐らずに生きてゆくしかない。

けれど心はどんどん閉じてゆきそうで、自分が他人を、特に異性を信じようとしなくなってゆく。変な言い回しだが、期待したり信用したりした分だけ空回りしてきたが、もう傷つけたくも傷つきたくも無いと思ったりする。

ワタシの精神は幼稚なのままなのか、完全な自立等していないと思われるので、過去好き合った相手には少なからず依存したり希望を持ったりしてしまった。でも少なからずそんな絡み合いや関わりがあるからこそ、絆も生まれるのではないかとも思う。"関係”とは肉体の話だけじゃない筈だ。深くなるには、年月以上に、共に難を乗り越えたり応え合ったり譲ったりの歴史も必要だろう。

ワタシは家族が欲しかった。幼い頃から希薄な道を歩んで来たので、ずっと欲していたんだと思う。けれど難しかった。どうしていいか判らなくなり、動かないのではなく、動く道を選んでしまった。印籠を引いたのはワタシだった。

しかし、嘘をつかれたりした時のダメージは大きい。誰しもバレる嘘は、大小問わずつかない方がいい。大切な関係なら尚更だ。

今は毎日、靴を履いて出かける、つまり自分の足で道を一歩づつ歩くので精一杯だ。

心には黒々といつも穴が空いている。時には蒼く広い空や海原が見えることもある。地図に無い渓流の滝や大きな樹が、出会った獣達が見えることもある。普段ごおごおと風が吹いているが、なるべく耳を閉じて聴かない様にしている。

 

ジンセイ一寸先は判らないもの。今玄関先を出たらば車に轢かれて死んでしまうかも知れない。

けれど、今更〜と投げ捨てずコツコツやっていたならば、何か青天の霹靂的な “いいこと” って奴も起こるやも知れない。

 

 (話が大きく外れてしまった...)

骨子に対する感想は大きく変わらなくても、その後何度か観かえす度に新しい発見があり感動をくれる映画。

よく耳にする話だけど、ワタシにとってもまた映画や音楽が教師であり、俳優やミュージシャンが先輩であったのだろう。その筆頭がデニス・ホッパーだった。

昨年の清志郎(ボスについては26.と30.の2回に分けて『いきざま』として書かせてもらった。)に続いて又一人、ワタシに絶大な影響を与えてくれた先輩が、空の星になってしまった。

寂しい。嫌でも己のジンセイの残り時間を思わざるを得ない。

残り時間.... 君は考えて毎日を過ごしていますか?

 

       *

 

ホッパーは絵も描き音楽も奏でる元々アーティスト気質であった為、ある時期に周囲との対立は避けられなかったのはよく解る。いい子やいい人ではなかったのだろう。きっと彼なんかは、長い物に巻かれ流行になびくなんて技には、まるで興味がないのだろうから。

レスラー』で最前線に復活したミッキー・ロークにも近いものを感じるけれど、こちらは若かりし頃にイケメンとして騒がれ過ぎて、後に苦しんだ部分も大きいのかも知れない。日本でもよくCMに出演していた。あの頃は「キザだなあ〜」としか感じなかったミッキーが、やはり仕事を干され沈黙していたとされる期間に、端役で幾つかの映画に出演している。ワタシはそれらを観る度に彼が好きになった。ヴィンセント・ギャロ監督&主演の『バッファロー'66』のチョイ役も上手かったし、トニー・スコット監督でキーラ・ナイトレイ主演、実在した女バウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)のドミノ・ハーヴェイをモデルにした自伝的映画『ドミノ』でのエド役も味があったと思う。ミッキーも独特の哀しい存在感のある大人の男に成長していったのだ。

両人共に一般世間からは “沈黙” とみられていた時期に、端役で幾つかの作品に出演し、独特な存在を見事に演じている。

ミッキーは『レスラー』でど真ん中の主役に返り咲き、作品の質も上々で、ワタシはレンタル後に購入してしまった程に気に入ってしまった。しかし長い沈黙とされる時期の演技はあまり評価はされていないけれど、ワタシは俳優がなにもいつも主役なんかではなくとも良いんじゃないかと思う。主役級なのにちゃんと脇役もこなせるからこそ、恰好いいんじゃないか?と思うのだけど。(余談だが『トゥルー・ロマンス』でのブラッド・ピットは超端役として最高だよ!一躍スターダムにのし上がる以前、ジュリエット・ルイスと同棲していた頃に彼はマリファナが手離せなかったというから、この映画内でのぶっ飛び演技はリアルです。ちなみにジュリエット・ルイスですが、アバズレっぽく捉えられがちな彼女だけど、『ギルバート・グレイプ』での彼女は悩殺ポーズも無く、脇役をちゃんとこなして好感です。レオナルド・ディカプリオって坊っちゃん顔で基本的になんだか好きになれないのですが、この映画に於いて知的障害者アーニーを演じる彼の演技には脱帽です。彼はもっと歳をとってゆけば、きっとジャック・ニコルソンを甘くしたみたいな深い雰囲気を出せるのではないかと思います。ジョニー・デップもこの映画の中、主人公ギルバートとして、とても静かでいい演技してます。)

 

話戻してD.ホッパー。彼が長いこと酒やドラッグに溺れ、私生活での奇行や良く無い評判を耳にしようが、安っぽい作品のストーカーやサイコな犯人役でギャラを稼ごうがー(仕方無いよね。皆、生活があるんだからさ...)ワタシの中での彼はいつでも、 “此処では無い遠く” を見つめた目をしてテキサスハットを冠った “旅人ビリー” でしかなかった。『イージーライダー』でバイクには夢中にならず、ひたすらワタシの心を捉えたのは、ビリーから滲み出る何かだった。

一度心底惚れた相手を、それが喩え自然物や風景や将又元々命の無い人工的なモノであろうが、どうして忘れられようか?想いが薄れようか?相手がどこでどう生きていようが、死んでしまおうが、どうして忘れられようか?想いが薄れようか?ーといった話は、以前当ブログ『28.匂い』で綴った覚えがある。

要するに “旅人ビリー” ことD.ホッパーは、ワタシの中の永遠の兄貴なのだろう。哀しい兄貴。

 

       *

 

彼が出演している作品の全てをくまなく観てきた訳じゃない。けれど10数作品を観てきた。

初見は前述『イージー・ライダー』だが、この作品を溯ること10年以上前に『理由なき反抗』にも出演していたようで、(後に観た際には)怯えた目をして神経質そうな線の細い青年ホッパーに驚いた。

尚、ここにはその他大勢の若者の中に(後に『パリ・テキサス』で主人公を張る)名脇役ハリー・ディーン・スタントンも出演している。クレジットすら無い役だと思う。神経質で観察眼の鋭そうな彼も、それはそれは多数の作品で重要な脇役をこなして来た俳優だ。女性にしてみれば、彼を汚い痩せっぽっちと視るか、放っておけないオトコと視るかはハッキリ別れる処だろう。

ハリーは実はゴッドファーザーpart2にも出ているのだ。『レオン』の器用から日本でも広く顔を知られる様になったD.アイエロもpart2に出演している。皆、コツコツ頑張って来た地味で味のある俳優だと思う。好きだ。

 

話戻してホッパーの出演作での大作は勿論『イージー・ライダー』『地獄の黙示録』だろう。この2本は有名過ぎてワタシが紹介することもない。否、手前勝手に書こうと思えば幾らでも書けてしまうのだが、話がどんどん逸れそうなので今日は辞めよう。

サイコな役柄として一遍通りに語られては可哀想な位に映像美にはまっているのが『ブルーベルベット』。リンチ監督作の中では解り易い域の作品だろう。個人的にはD.リンチ作の中ではナオミ・ワッツ主演『マルホランド・ドライブ』とニコラス・ケイジ主演『ワイルド・アット・ハート』が一等好きだが。

後者の脇役としてウィリアム・デフォーが異様な役を上手くこなしている。『プラトーン』でのキリスト磔役みたいな大佐デフォーとはあまりに違う演技に驚く。

D.ホッパーが自ら監督した『バックトラック』では、彼の強情な面と気弱な部分の両極の表情や、乾いた風景の中にチリソースの様に散りばめられた赤の映像美が観られる。ワタシはこの作品を初め、監督アラン・スミシー名義の『ハートに火をつけて』側で観たのだが、後に公開された『バックトラック』では主演二人の愛のカタチが丁寧に描かれていて良かった。男の願望昇華みたいなチープなストーリーをカバーするのが、ジョディー・フォスターの生唾ものな可愛さと(ワタシの大好きな怪優)ジョン・タトゥーロの迷走ぶりだろうか。

タトゥーロも端役を含めれば凄い数の作品に出演している。今ふと思い出す印象深いものは『ビッグ・リボウスキ』での変態ボウラー“ジーザス” 役、『耳に残るは君の歌声』での“ダンテ” 役とか、どれもこれも強烈だ。併し主演としての『バートン・フィンク』と『ミラーズ・クロッシン』でのチンピラ・マフィア”バーニー” 役も忘れられない。

後者『ミラーズ・クロッシン』は全編曇天の様な膜がかった美しい映像で、とても硬派な話というか、そしてマドンナ役ではやはり芸達者なマーシャ・ゲイ・ハーデンが出演している。土地や血の言葉に成らない絡みと盛衰の儚さという意味でだろうか?実はワタシはマフィアものも好んで観てきたが、この作品は映像の美しさと丁寧な演出では上位に入る。マフィアものを好むのは、きっと家族の栄華盛衰を観ているのかも知れない。

 

トゥルー・ロマンス』は長らく地元成増のツタヤにはVHSしか無かったが最近になってDVDが入荷したようだ。毎週一度は覗いても常に貸し出し中なところをみると、やはりこの映画の隠れファンは多いとみえる。

そう、この作品も又色んな意味でオススメだ。「暴力シーンは一切ごめんだ」という御仁には無理強いはしないが、どうして確かにバイオレンス・ムービーの棚にありながらラブ・ロマンス的な要素たっぷりでツメ的にも肌理が細かく、決してストーリーや演出やカット割りや音楽やどこを取り上げても極上な仕上がりなのだ。脚本はタランティーノ。ギャラが安いのに、ゲイリー・オールドマンやサミュエル・L・ジャクソンやブラッド・ピット等、名だたる俳優が勢揃いだ。

主人公クラレンスはクリスチャン・スレーターでマドンナのアラバマ役はパトリシア・アークエット。『薔薇の名前』の頃よりスレーターは数段上手くなっている。P.アークエットは身体は “デカイけど可愛い” 代表格みたいな女優だと思う。話の中で二人は、出逢った翌日に籍を入れてしまった気がする。

ちなみに『ヒューマンネイチュア』での異様に毛深い女性ライラ役の彼女が大好きだ。彼女の身体の色っぽさと、落ち着いて思慮深そうな表情に対して、イザの際の逆切れ演技が凄いのなんの。こんな奥さんが居たら...どんなにか頼もしく、癒され、そして疲れることだろう。疲れてもいいから、欲しいP.アークエット!今気が付いた...P.アークエットかなりタイプだ。

さて、D・ホッパーと云えば、主人公クラレンスの父親役だ。短時間しか出演してないが、トレーラーハウス内でのクリストファー・ウォーケンとの絡みは超A級のシーンなのだ。台詞の一言一句、その間、彼等の眉や指の動きの一つ一つまで、そして映像としての光や影etc...それら全てが、観る者に呼吸をさせない位に夢中にさせてくれる。星の数程ある映画の名シーンの中で、ワタシは上位に入れたい。

トゥルー・ロマンス』の様な吸引力の出逢いがあったなら、もう死んでもいいかも知れない。でもタランティーノは物語の最後で主人公を殺してしまうか悩んだ末に(T.スコット監督やスレーター側の説得により)生かしたらしいから... まあ、出逢いがあったら誰しも死なずに、ぐちゃぐちゃしたり、うだうだしたり、どろどろになって...少なからず男女はそうゆう展開に生きてゆくのだろう。

 

変わった役柄として出演したのが『バスキア』。ジャン・ミッシェル・バスキアがN.Y.の画壇にデビュー前数年〜死までの数年を、やはり画家で(今は映画監督として成功している)ジュリアン・シュナーベルが監督した作品。デニスは画商役。バスキアの友人でもあったジュリアン役はゲイリー・オールドマン、アンディ・ウォーホールはなんとデビッド・ボウイが怪演している。前述のW.デフォーは自らもアマチュアのアーティストである電気工の役でチョイ出演しているのだが、台詞が泣ける。

尚友人役でベニチオ・デル・トロの演技は見物だ。完全に飛んで行ってしまった演技の中に艶があるのが彼の骨頂だ。ちなみに公園でバスケットをしながらの放屁は、彼のアドリブらしい。これから観る方は聴き逃さないで欲しい(笑)。

補足としてニルヴァーナの故カート・コバーンの妻でもあったコートニー・ラヴが何回かの整形前の顔でちょい役で出演している。この役は売れ出す前の歌手マドンナがモデルらしい。

昔ワタシがバンドをやっていた頃に高円寺に住んで居て、”あみん”という阿佐ヶ谷に住む謎のパンク男と知り合ったのだが、その彼のカノジョの“みかちゃん”がこの映画に出て来るコートニーにそっくりだった。みかちゃんは東京が合わず神戸に帰ってしまった。

アルバイトの帰りだったか、阿佐ヶ谷の駅に立つ彼女に偶然会った。今しがたあみんと別れてきて、一人で神戸に帰るところだった。駅のベンチに座って少し話した後、彼女は最後に少し泣いた。自分のカノジョでもないのに、悔しくて、悲しくて、ワタシも涙が溢れていた。みかちゃんは驚いて私を見て、そして又余計に泣いていた。電車のドアが閉まってみかちゃんは淋しそうに手を振っていた。あの時もう二度とこの娘とは会えないんだなと思ったものだが、事実その後の消息は知らない。

みかちゃんが去った後のあみんは荒れていて、淋しそうだった。彼は背は低いけれど相当に顔が格好良かったし、表面的にはシャイで憎めないキャラクターだったので、直ぐに年上のカノジョが出来た。いつもビンビンに立てていたウニの様な髪の毛を、ナチュラルに垂らしてグラサンなんかして、あみんも外見が変わっていった。でもワタシはその新しいカノジョとは仲良くなれなかった。相当に美人で、お金も持っていそうで、誰もを見下す様なオンナだったからだ。ライブハウスに来ていても、音楽なんかどうでもいいといった聴き方の女だったんだ。

そう云えば当時サイキックTVなんか教えてくれたのは彼であり、彼にキング・クリムゾンやケヴィン・エアーズなんかを教えたのはワタシだった。唯、あみんも何年かして結局名古屋に帰って、何やらモデルの仕事をしていると噂に聞いた。

あみんとみかちゃん。二人を思い出せば、まるで切ない恋愛映画の主役のように思え、同時に自分の青春時代がオーバーラップしてきてしまう。

あの頃に異性に恋する気持ち、片時も離れたく無い気持ち、ワタシは忘れてしまった気がしてならないよ。離婚して臆病になってしまったのか?他人をあまり信用しても裏切られるだけだと、意識の底で消沈してゆく感じだ。ドアが閉じているのだろうか?

あみんとみかちゃん....思い出したら何だか切なくなってきたよ! 帰りたいな、あの頃に...

こんな思い出は久しく忘れていた。

(脱線し過ぎたか...?)

 

ジュリアン・シュナーベル監督作は全て、さすが画家なだけあってとにかく映像が奇麗だし、カメラアングルや編集が独自だ。ちなみに彼の超大作の絵画は好みではない。大男だけあって?何もかもがデカ過ぎる。絵画制作においては、モチーフが自ずとキャンバス等の支持体の大きさを教えてくれる筈だが、彼の場合大きさで権威を訴えている気がする。

同じことを、昨今の現代美術家を名乗る輩の多くにも感じる。驚かすのが芸術ではないだろう。無駄にデカけりゃいいってもんじゃない筈。作品という“物を増やす”ということ即ち“ゴミを増やす”ことに等しい筈であり、アーティスト個人個人にも、企業の社長さんや役員の方達にも夫々役目というものが在る筈だ。TVのニュースで衛星や宇宙の話を興味深く聴くのならば、少しは地球外からの視点で我が作品や創作を鑑みるといいのではないだろうか?

とにかく金にモノを言わせては、どんな世界も良い方向にはいかないだろう。

 

(話戻して)他作品でのデニスは多くが犯人役で、性格・人格に破綻したところがあり〜なんて設定が多く...まあ生活の為、次への資金作りには致し方ない出演もあったとは思うのだが。

元々が器用な役者ではないと思う。背も低く、顔も特徴があり過ぎて、なにしろ目が怖い。というか眼孔が深く瞳の光が鋭過ぎるのだ。そして瞳がデカいのだ。おでこが広いのだ。どんなに静かで優しさが求められるシーンでも、極短時間しか保たないだろう安らぎというか、次の事件を予感させる目や顔をしているというか

しかし、格好良く云えば、哀しみを内包した大人のオトコの瞳であることは確かなのだ。これは例えばマーロン・ブランドにも感じる点かも知れない。エド・ハリスやショーン・ペンにも感じるのだが、何か少し質が違う。前述二人はそこから戻って来ない闇を抱え、後者二人の闇は誰か愛する女性がカーテンを引けば光も差すだろう闇というか... 等と言ってしまったら差をつけ過ぎだろうか?

 

      *

 

さて最後にホッパー出演作中でワタシが一番好きな、そして数在る映画の中でも(新作に出逢いランクに変動があろうが)必ずベスト5 には居座る作品が、ビィム・ベンダース監督『アメリカの友人』だ。『パリ、テキサス』とコレと2本が、ベンダース監督作で最も好きだ。レンタル店ではサスペンスの棚に在ったりするが、むしろこれはベタつかない友情の話だと思う。とにかく大人の映画なのだ。お洒落だとかキラビヤカさには無縁な、ひたすらリアルで静かな展開。

主人公は二人だと云える。ブルーノ・ガンツ演じるヨナタンは額縁職人。妻と小さな息子が一人居る。夫婦の年齢に対し子供が幼い設定だから、地味な職人仕事では生活はそう豊かではないことが伺われる。片やデニス・ホッパー演じるトム・リプレーは 独り者であり、仕事は “死んだ筈の己の贋作を描き続けている画家” の絵を売りさばくバイヤーであり、マフィアとの繋がりもあるThe謎の男。

原作はパトリシア・ハイ・スミスで『リプレーのゲーム』と『贋作』の2作からヴェンダース自らが脚本を練った様だ。ここで名前から察する御仁も居られるかと思うが、なんとトム・リプレーとは『太陽がいっぱい』でアラン・ドロンが演じた主人公であり、その後の彼自身、つまり同一人物なのだそうだ。

この映画は、この世界で交わる筈の無かった二人の人間の、或る意味で命をかけた数日間のドラマである。けれども、至って静かなのである。セックスシーンも飛び散る血しぶきもカーチェイスも、ド派手な演出場面は欠片も無い。日常の隙間で、悪や膿が忍び寄る訳でもない。

嫉妬や懐疑心や差別、そういった誰でも持ってしまう感情からのたった一言や一つの行動から、金箔一枚の薄さの様な階段を踏み違え、じわじわと或る旅へと進行してしまうだけの話。それは “海への旅” と云おうか... 一応推理劇なのだからこれ以上の具体は書かない方がいいだろうと思う。

 

過去に松本清張作品にハマり読みふけった時期があったが、極上の推理小説とはもしかすると、安っぽい文学作品より余程ブンガクしていると感じたりする。高村薫しかり。感情を感情的に表現しないで出来事を事細かく淡々と綴ってある分だけ、リアルに迫って来るのかも知れない。話し言葉で「」を連発する我が国の雰囲気小説等は足下にも及ばないリアルさが在る。決してお洒落でも、読後の後味が爽やかでもなかろうが、”限られた人生時間” を気にする方で未だこの辺りに触れず嫌いな方が居らしたらば、是非ともオススメしたい。

ちなみに松本清張の短編が読み易い。推理小説ではないが吉村昭も短編がいい。短編はむしろ映画向きとも云えるかも知れない。無駄な表現を削る分、読む側に想像力を働かせる。そこに映画の場合アイデアが生まれ易い。

当ブログ『41. 海の小箱(2/2)』に書いた『ジョゼと虎と魚たち』も、田辺聖子の短編が原作だった。実は松本清張も吉村昭も田辺聖子も、映画を観てから原作の作家を追って読み始めたのだった。映画からスタートの部分が多いmyライフ。

 

この映画『アメリカの友人』が何故そんなに好きなのか改めて考えてみたのだけど、先ず映像が美しい。フィルムの種類や画面着色の技術について詳しくは判らないが、そういった人工的な色と、舞台となる港町や都会の石やコンクリートの冷たい風景が上手く重ねられていると思う。子供の雨具の黄色、空に揚がる凧の橙、額縁装飾に使用する金箔や、前述絵画の青、車の赤etc... それらの原色が、それこそウルサく無い極上の絵画の様に散りばめられ、さりげない記号となっている。テロップの文字をはじめ、赤という色がこの映画のキーワードとも云えるかも知れない。それも真っ赤ではなく、インディアンレッドというか金赤っぽい色。

そしてストーリーの展開と演出が、決して過剰ではないところがイイ。リアルがここに在る。裏世界の人間も、主婦も子供も出て来るが、皆セイカツがあり生きている訳で。腹も減るし、喉も乾く。丁寧に行おうとして躓いて転んだり、心配させないが為に嘘をついたり、一言が言えなくて照れるばかりだったり...そこにワタシ達が居る。各々が生きている。うじうじうだうだしながら生きたくて生きている。つまり死は誰もにとって恐怖な筈である。

だから欲しいのは、そして与えるべきは・・・?

 

 尚、劇中でヨナタンが工房でラジオに合わせて口ずさむシーンがあるが、曲はTHE KINKSの4枚目のアルバム『フェイス・トゥ・フェイス』の “Too Much on My Mind” だったと記憶している。邦題は “僕の心に深く” 。決心した旅の前にはビートルズの『ラバーソウル』の “ドライブ・マイ・カー” を口ずさむ。オジさんが、さりげなく。なんて恰好いいんだ!

 

劇中でトム・リプレーは『イージーライダー』を彷彿させるカーボーイハットを冠っていた。

ホテルで独り、日記風に己の肉声をハンディタイプのテープレコーダーに録音するシーンが忘れられない。きっとその内、録ったテープは捨てるのだろうと思う。『あなたになら言える秘密のこと』で主人公ハンナ役のサラ・ポーリーが丁寧に刺繍していた布を、旅先でポイッと捨ててしまうのと同じことだ。カナシイけれど自分にはよく解る気がする。

「日々どんどん混迷。分からなくなって来る。」と、リプレーはテープに吹き込んでいた。ワタシも同じなんだ...

 

 

ヒッピー文化の終焉と共にバイクを降りたビリー。

謝肉祭には行けなかったビリー。

都会に流れ来てトム・リプレーとして、何を探し、何をハンティングしたかったのか.....

そしてワタシ自身も、今更ながら都会に流れ来て、何を探し、求めているのか....

 ハリウッドを追放されシゴトを干され、沈黙していたとされる1977年の作品『アメリカの友人』に於いて、彼は実に素晴らしい仕事をしていた。

ワタシは未だ素晴らしい仕事をしていないだろう...

 

哀しい兄貴D.ホッパーよ。これからも何度となくこの作品を観返そう。

僕は僕の旅の途中でさ...

 

 

 

 ー旅人ビリーよ、この曲で天に昇り賜えー

 

 

 

 

 

 

                 (只今の脳内ミュージック/JIMI HENDRIX "Love Or Confusion" 

 

謝肉祭のカーニバル.jpg

 

 



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