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83. 一人でお茶を [ことば・映像・音・食べ物etc.]

前回の『平塚少女』の続きは今回お休みしまして、コレ又長いこと寝かせていた "赤い飛行船" に関係?したお話です。

一杯のお茶が喉を潤す。一杯のティーがヒトの心を潤してくれる。
夏は麦茶かアイスティーか。冬は熱いミルクティーか。
勿論、珈琲でもチャイでもいい。ハーブティーもいい。抹茶オレでもいい。
ここで云う “お茶” とは...アナタがホッと一息つきたい時や気分転換を計りたい時、軽く自分へのご褒美として煎れる飲み物のことなんだ。

量は関係ない。大切なのは煎れ方だ。シチュエーションって奴だ。
例えば珈琲を煎れる時の心の有り様。野草茶を煎じる間の時間。
例えば自分だけの為に。例えば向かい合う人の為に。
時に出来合いのパックから注ぎ、時に熱湯で溶くだけもいい。
ゆっくり時間をかけたい時も、忙しくて手間暇かけたくない時もあるだろう。
いつもの台所でひとり。時に団らんのテーブルで。または他人の家で。会社の給湯室で。
湯気が上がる。香りが漂う。コップや湯のみに入れた中身の温度が、じわっと掌に伝わる。
ひと口目の何とも云えない感覚。舌を、鼻を、喉を、きっと五感を、優しく刺激してくれる。
飲み慣れていて普段は何気なく飲み込んでいる同じ銘柄でも、一緒に飲む相手や場所が変われば味も変わってくる。
そしてその時の体調や、精神状態によっても変わって感じられたりする。

勉強に疲れた時、気分一新に。
労働の合間、疲労した身体に褒美の休憩。
久しぶりの友との対面。それとも初対面の打ち合わせ。
見つめ合うことも未だ慣れない、相思相愛の二人。
倦怠期のペアが、ひたすら黙って向かい合う時。
何か取り組みに夢中の合間。
しばし喧嘩の中断。
互いの間や、横に。時間の狭間に。
台所のテーブルで。居間のちゃぶ台で。
窓辺に佇んで。ベランダのデッキに腰掛けて。
ドライブの途中に寄ったサービスエリア。はたまた山の中や、海辺で携帯コンロで沸かす。
そんな一杯のお茶が、掌に包まれて、誰かの心を潤している。

孤独な時間も、せわしない喧噪の中でも、実際にコトバにするかしないか別にして
「お茶にでもするか...」
そんなありふれた行為。けれど確実にそれまでの何かを転換したり一新してくれる行為。
きっと僕も、これを読んでくれているアナタも、昨日も今日も近い過去に必ずしているだろう行為。
災害に遭ったり、孤島や遭難でニッチもサッチもいかない閉塞状態にも、先ず第一に生き延びる為に必要なものが水分だとするならば... 
"お茶" って、僕らの日常生活では小さな栄養、けれども大きな存在に思えてきたりする。

       *

僕は酒を呑むヒトでもある。
現在は軽くたしなむヒトである。が、昔は毎晩呑まれるヒトであった。
もっと昔、初めてアルコールに触れたのは、否、呑んだのは、父が大切に呑んでいたらしい自家製の梅酒だった。
黄金色に輝く飲み物!なんだろうコレ?と隠れて呑んだ。あまりに甘く美味しいものだから、「ちょびっとづつならバレないだろう。」なんて、結局はどんどん飲んだ。
そんな子供らしい "根拠の無い願望だけの計画" はものの見事に数日でバレてしまい、父親にえらく叱られた。
「いつかオマエも大人になって、自分で稼いだ金で呑め。」と言われた。
でもこの時に「お酒って美味しいし、なんだか気持ちよくなるんだ...」と、青い脳細胞に刻まれた。

10代後半から20代中盤位までは、バンドでライヴの打ち上げの際はここぞとばかり呑んでいた。主にビールから酎ハイだった。
吐き気がする迄とか、何もかもどうでもいい位に酔ってしまう迄とか、いつもどうしようもない暗黙の了解の様に馬鹿な飲み方をしていた。全く味わうどころか、呑み方を知らなかった時代である。
そのうちに日本酒の冷や酒の美味さを覚えてしまい、或る時期から2級の辛口にハマった。奥多摩の地酒『沢登り』だったか、安価だったし、一升瓶を抱えて呑む様になっていた。
何年か同棲していた相手との別離もあって、僕は未練がましく酒に溺れていった。寝付けないから酒に頼ったのだった。
"納得がいく別れ" なんてそうそう無いのに、僕はあの時も言いたいことも言えずに、誰にも相談も愚痴も言えずに、外では明るく優しく振る舞ってしまい、アパートに帰って夜独りになると荒れていた。
宅呑みの、一番ヤバいパターンだった。

根っからの夜型体質は、増える『沢登り』の量に依ってより悪化した。
アルバイトには出勤してはいたけれど、遅刻常習犯だった。そして、一つの仕事はそう長続きしなかった。
バンドのライヴ等の都合に会社が難色を示せば「じゃあ辞めさせて下さい。」なんて、今の時勢では信じがたい決断で。なのに当時はバブル全盛期だったから、極端な長髪でも仕事は結構見つかった。
「首になったらなったでいいや。」等という態度で出勤していられた自分が信じられない。若さとは実に暴挙でもあった。

けれど根っからの作業集中型でもあった。なので、労働が始まれば夢中になってしまい、それを“見かけによらず真面目な奴”と捉えてもらえていたので、何処へ勤めても割と可愛がってもらえた。
幸いにして、必ず一人の上司が飯を奢ってくれたり優しくしてくれた。家に呼ばれて奥さんお手製の夕飯を御馳走してもらったり、なんてこともあった。
どうやら当時50キロ代だった僕を「オマエ痩せ過ぎだぞ」とか「ちゃんと飯食ってるのか?」とか心配してもらいながら、色んな方に色んな食事をごちそうして戴いた。
けれど皆が僕に2-3の問いかけをした後、説教から始まって、大体は自らの経験談や悩みや愚痴を酔っぱらって話すのだった。誰もが自分の話をしたかったのだと思う。いつだって世の皆様方、自分の話を聴いて欲しい人だらけなのだった。
この頃に多くの大人(中年)達から感じた、言うなればー "哀しさ"。
コレも又僕にとっては本を読んだり映画を観たりするのとは異なる "或るリアルさ" を保って、未だに僕の身体の中の何処かに、静かにしまいこまれている気がする。
それは自分自身が中年の域に達し、なのに安定や安泰どころか、無計画極まりない人生を歩んでいるからこそだろう。

どんな人生、どんな人や状況の上にもなかなか解決なんか出来ない問題や曖昧な思いがあるもの。誰もがそれを抱えながら生きてゆくしかない。
痩せた僕が他人の家にオヨバレする。面倒臭い時もあったと思うが、大体は緊張しながら一寸嬉しかったと思う。
家族まで紹介されたり、団らんのテーブルで食事したり。初めて口にする食事も多かった。知らない食べ物の多さに驚いた。
そんな時に、昔から温かく平和な家庭と縁の薄かった僕は、きっと胸の内で羨ましさを抱えながら、顔で笑って心は苛ついていたと思う。今ココで誰かに、「アンタはひねくれている」と言われようが、「この恩知らず」と言われようが、素直に吐露すればそうだと思う。僕はひがみ根性も嫉妬心も持ち合わせた生き物だ。

自分の内にある両極の感覚の片端は "落ち着くことのない不安定な苛つき" だと思ったりする。
勿論、もう一方の片端は純粋な単純さで、直ぐ人を信じて好きになってしまう感覚だろう。そちら側で実際には反応したり、感謝したりしているのかも知れないと思う。
ちなみに “一宿一飯の恩” と云えば、僕は何一つ恩返しはして来なかったかも知れないけれど、奢ったり泊めてくれた方たちの顔や特徴は今も忘れることはない。

       *

(いつもの癖だ。いつの間にか話が変わってしまった。軌道修正しよう。)
あの頃は、アパートに帰宅してからは毎晩、ロクでもない夕食から呑み始めて、寝る迄呑んでいた。
何もしていなかった訳ではなく、楽器やペンを持ちながら、横に『沢登り』が在った。
一升が数日しか保たなかった。
あの頃はどうにか寝床にぶっ倒れて寝入る、そんな毎日だった。寂しさをごまかす術が、酒でしかなかったのだろう。
半年もして、たしか吉祥寺の音楽スタジオのトイレだったか、上と下から血が出た。特に下からは大量の血が出た。我慢出来ない位にお腹が痛いとかの予兆はなく、併し僕は滅法 "赤い血には弱い" 質だったから、一気に気弱になった。
普段から栄養は足りていなかっただろうし、それに一気に血が減ったからか、世界から色が無くなって視えた。視界に映るもの総てが、薄紫色に視えたのを覚えている。

たしか2−3日寝ていた。治らないので病院に行ってみることにした。
電話ボックスの電話帳で調べたところ、自転車で行ける距離で大きな病院としては武蔵野赤十字病院が近かった。
検査に行って、裸になってツンツルテンのモスグリーンの園児服みたいな格好をさせられた。ガラス窓の向こうで年端もいかないインターンが大勢見学する中、宇宙船のカプセルみたいな中に縛り付けられ、グルングルンと回転させられた。
おまけに若い看護婦に肛門からカメラも入れられて、「恥ずかしい...」を通り越していた。
結果は即入院だった。十二指腸潰瘍と過敏性大腸炎という診断だった。
ベッド代が高くて、4-5日でお願いして退院した。
実家や友人には知らせず、当然誰一人見舞いもなく。だから看護婦さんはとても優しくしてくれて、つい惚れそうだった。名前は覚えていないけれど、なんとなく背格好と顔は覚えている。ペンでイラストを描いてあげたら「額に入れて部屋に飾るわ。」と言って貰ってくれた。

当時は携帯電話等は未だ一般人は持てない代物だった。
だから病院からの連絡は、小銭を投入しての公衆電話しか手段が無かった。
黄緑や赤い公衆電話は、病院の寂しい廊下やロビーの隅に鎮座していて、いざ思い立ったところで携帯電話の様に気軽に行動には移せなかった気がする。今現在以上に、何と話せば良いのか考えたり、その時受ける相手の立場や状況を想像すれば、連絡するという行為は僕にとっては重いことだった。皆、糞貧乏のバンドのメンバーには知らせなかった。
でも改めて鑑みれば、ジーコジーコと回すダイヤル式の黒電話時代に育った僕は、元々電話が苦手なのだ。
それに、気弱になればなるほど済し崩しになってしまいそうで、落ちている時は沈黙してきた。本当は饒舌な部分も持ち合わせる筈の自分は、「もうヤバいぞ」の手前で "黙る" ことで「強くなれ、強くなるしかないんだ」と乗り越えて来た気がする。
実は弱虫で寂しがり屋で仕方ないから、28年もの間、一枚のマリアの小さな絵を大切にしてきた。キリスト教徒でもないのに。併しきっとそれは、幼い頃に長いことバプテスト教会の日曜学校に通っていたことが影響しているのかも知れない。
辛い時に、この質素な造りの教会をよく思い出す。と言うより、その景色が浮かぶ。
(キーワードを "宗教" とした話もいずれ書こうと思っている。深い洞察なんかではなく、自分の人生にリアルに関わった宗教方面?の話題で。)


当時僕は、24歳位の痩せた青年だった。
清志郎の歌詞を真似て、自称バンドマンだった。
フェイヴァリットLPはデビッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』にピンクフロイドの『ザ・ウォール』ザ・フーの『四重人格』にキング・クリムゾンの『21世紀の精神異常者』、ルー・リード『ベルリン』にジミ・ヘンドリックス『ボールド・アズ・ラヴ』、そしてジョン・レノンのソロ全てだった。
『タクシードライバー』や『明日に向かって撃て』&『俺たちに明日はない』を何度でも観返し、セリーヌやヘミングウェイ、S.モームやブコウスキーを枕本にしていた。
寺山修司の世界に出逢い阿佐ヶ谷にも住んだり、西条八十を知り霧積峠を訪ねたりした。
勤め先の上司につげ義春・忠男の兄弟を教わり、鈴木翁二に感化された。
当時僕は、酒にしこたま呑まれる痩せた青年だった。

赤十字病院を退院の際、中年の医者は言った。
毎晩呑むのが一番身体に悪いのです。そして、身体を冷やす酒はアナタには合いません。
思えば僕はいつの間にか、あの時の医者の年齢に達している。
だから僕は未だに夏しかビールを呑まない。今ではすっかり弱くなり、どんな酒でもお湯割り1-2杯で充分だ。
あんな恥ずかしい思いも二度としたくないし、真っ赤な血を見るのも怖い。寝込んだり入院したところで、未だに連絡出来る人も居ない。
でもこれが僕の人生だ。未だ捨てる訳にはいかない。
だから、充分に酒には注意しているつもりだ。

       *

ワンスモアだから〜 と云うのも強引な展開かも知れないが.... “お茶” が好きだ。
毎日呑んで、否、飲んで世話になっているのは “お酒” ではなく “お茶” の方だ。
一等好きなのは珈琲牛乳だ。
カフェ・オレなんて気取った言い方は好みじゃない。
砂糖はその時々で、入れたり入れなかったりだ。朝でも夜でも飲むのだ。
煎れ立ての濃い目の珈琲と、沸騰しない程度に温めておいたミルクを、8:2位の割合いがいい。
ソレって子供味じゃん〜と言われようが...好きなんだから仕方ない。
“好きなんだから仕方ない” の対象がヒトだと色々問題が起こりうる場合も多々あれど、相手が珈琲牛乳なら誰にも迷惑もかけない。

子供の頃から飲んできた。



マリア様より長い付き合いなんだ。
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        *



話は突如打って変わってレッド・ツェッペリン。
なんでツェッペリン?かと云えば...唯単に当頁のタイトル『一人でお茶を』は、彼らの曲名なのであった。7枚目のアルバム『プレゼンス』ラストのブルースだ。
実はこの正月にロバート・プラントとアリソン・クラウス共作の『レイジング・サンド』というアルバムを聴いたところ、彼のボーカルのシャウトの押さえ具合、静かな抑揚の中に漂う色気にえらく感動した。
何故このアルバムを聴く気になったのか?ーそれは、奇才T.ボーン・バーネットがプロデュースし、多種な楽器で参加もしているからである。紡がれるオーソドックスな音色から変態趣味のアレンジまで、彼の音楽的センス、特に絶妙なマのとり方等が僕は大好きなのだ。
プラントの狭くなった音域は、むしろ今の僕には耳障りが良く? そうした流れで大御所LED ZEPPELINを思い出してみたのだった。
ここで "思い出す" と言うのは何故なら、僕らの世代はネコも杓子もロック好きの男子は必ず、10代後半に一度は彼らに夢中になったからだ。そう、僕自身がディープ・パープルやレインボーやエアロスミスより、サバスとツェッペリンに夢中になった時期があったのだ。
ツェッペリンには、イントロを一瞬聴いただけで気分が一新してしまう、言うなればロック少年に帰ってしまう曲が多数ある。
ボーカルのプラントとギターのジミー・ペイジばかり注目されがちだが、僕がこのバンドを好きな最たる理由は、故ジョン・ボーナムのドラムとジョン・ポール・ジョーンズのベース&オルガンのつまりはリズム隊が好きだからだ。ハードなロックサウンドを奏でるバンドは多々あれど、彼ら程の最高のグルーブを編み出せるペアはなかなか存在しない。そういった意味で全アルバムがいい。
以降You Tubeで観聴き出来そうな2曲を取り上げよう。興味の無い方には甚だ面白くないコメントだろうから、興味のある方だけ読んで欲しい。

 

* 1st.アルバム収録『DAZED AND CONFUSED /幻惑されて』

当時としては衝撃のデビューアルバムと云っても過言ではないだろう。ブルースやロックンロールをこの様な解釈、こんなアプローチしてやったり!感は、世界中のロックファンを唸らせた。4人夫々みな趣味趣向や性格が違う奴らが集まって「格好いいバンドサウンドを作ろうじゃないか」と気を合わせた結果、アトランティック・レーベルからこんな1st.が産まれた訳だ。

個人的にはジャスト30年前(えっ!もうそんなに経つの〜!)ドキドキしながらレコード針を落とし、1曲目GOOD TIMES BAD TIMESのイントロが聴こえた時の興奮は忘れられない。“驚いた”という表現がピッタリだった。

尚『幻惑されて』はヤードバーズ時代の曲の焼き直しでもあるそうだ。そちらは未聴。

ロング・バージョンというかライブでは、ジミー・ペイジがバイオリンの弓を使って取り憑かれた様にギターを弾いている。

ちなみにこの映像は初期のスタジオ・ライブでのショート・バージョン。プラントの髪もまだまだ短く、ボーナムも太ってない。皆が若くて、未だぴちぴちしていてとっても可愛い。

 

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* 3rd.アルバム収録『IMMIGRANT SONG/移民の歌』

個人的にはバンドサウンドとしての水準の高さならば7枚目の『プレゼンス』、一枚のアルバム全体としてバランスの良さならば5枚目『聖なる館』を挙げる。

電気楽器(エレキ?)でロックを演ろうとする若者で、少なくとも彼らのアルバム1st.&2nd.&4th.を聴いていないというのは問題アリかも知れない。レディオヘッドの『OKコンピューター』を聴く前に是非ともZEPを聴くべし。聴いた後にも聴くべし。何故そう言うかは、聴けば解る筈。

そう、云うなれば....足し算や引き算がビートルズやストーンズだとするならば、キング・クリムゾンやツェッペリンは分数や因数が加わった位置に居るんだろう。たった4人で、これ位のコードと音色で、こんなにバリエーションに富んだサウンドが出来ちゃうんだ。それを証明した世界初のハードロック確信犯なんだ。

トリオでロックの可能性にチャレンジしたクラプトンのクリームやジミヘンのエクスペリエンスとは違った意味でのロック革命だった。

そんなこんなを知る為にも...アルバム毎に見事に味わいが異なり、ボーナムの死によって解散する迄のバンド自体の音楽遍歴が判り易く、楽しく、どれも捨てがたいのは確かである。

 

余談だけど、個人的には彼らのアルバムジャケットから受けた影響はとても大きかった。

ロックバンドの出すアルバムは、どこか説明的なダサいジャケットが多い中、彼らのは、落ち着いていながら謎めいていて、とても魅力的だった。今尚、絵画の様に飾って鑑賞に堪え得るレベルだ。カフェやファミレスなんかでもLPジャケットを飾ればいいのに〜と思う。

日本人はシャガールのリトグラフやマチスの切り絵ばっかり飾らないで、もっと怪しく、深く、味わいの有る絵や写真やつまりは作品を飾れよ〜と思う。それには鑑賞に堪え得る作品以前に、鑑賞する目や脳?感覚を国民が育てなければいけないよね。(僕も、マチスやシャガールもとっても好きだけどネ!)

それに、この国の看板や建築物や、とにかく色のセンスが低レベルだよな〜と常々思うのだ。

娘を育てるなかでも感じたが、保育園や幼稚園、そして小学校で、相変わらずあんな美術教育してちゃ駄目だよな〜。

話戻してーちなみに3rd.のクルクル回すと絵柄が変わる趣向のジャケットで何度遊んだことか!ほんと、なんて可愛く美しいセンスなんだ!って感じさ。

ピンク・フロイド、ラッシュ、スコーピオンズ、キング・クリムゾン、そしてレッド・ツェッペリン。僕にとって彼らのジャケットこそは、ゴッホの夜空や麦畑やムンクの蠢く様な絵画に初めて出逢った時の驚きに近かった。

 

最後にーツェッペリンの曲は大まかに分類すると、3つ位に分けて考える事が出来そうだ。

ジョン・ポール・ジョーンズのベースとジョン・ボーナムのドラムが作るグルーブの中で、ロバート・プラントのボーカルやジミー・ペイジのギターが縦横無尽に吠えたり絡んだりする ”ハードなリフタイプ”が1つ。

次にブルースのコードパターンを基本に、ハードなアレンジを施し、長尺にアレンジした “ハードなブルースタイプ”。

3つ目が、決して音を歪ませず静かめなサウンドにまとめ、どこか牧歌的だったり土着的な匂いをかませつつ、実は新しい試みも随所に忍ばせた “フォーキータイプ”。

この『移民の歌』はまさしく1つ目の代表曲だろう。

ちなみにビデオはオーストラリア公演の模様。

 

なんとコノ曲、僕は高校2年だったか、府中や調布辺りの軽音楽部繋がりの企画ライブで、オープニングに唄った。

会場は京王線の府中駅前のグリーンプラザ。他にはジャーニーやホワイトスネイクやレインボーを演った。

全曲コピーだったが、5人のバンドメンバーの演奏力は高く、特にSince I've been loving you が上出来だったのが嬉しかった。いつも静かでクールな柿山君の泣きのギターテクニックは今思い出しても完璧、ジミー・ペイジにヒョウイしてた。

当時は2オクターブ半から3オクターブ声が出たのだが、然しながら今思い返すと、歌の英語の発音はデタラメもいいとこだったス。

当時のテープを未だ持っている人が居たら、頼むからどうか穴に埋めてくれ。

それが面倒臭かったら、地域の分別に従って処分してくれ。

 

 

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           (只今の脳内ミュージックは勿論 /LED ZEPPELIN "Tea For One")

  
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