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26. いきざま(1/2) [ことば・映像・音・食べ物etc.]

 [先ず、当頁いつになく自分で読み返してみたりしまして。ついつい削ったり追加文を書き込みたくなってしまい、強いてはデータが投稿規定量を超えてしまいました。ので『いきざま』は26.と30.の2回に分けて掲載し直したいと思います。5/8(金)記 ] 
 
 昨日の深夜Nさんのブログで訃報を知った。大変なショックを受けている。
彼に対する思い、受けた影響、長きに渡ってのそれは言い尽くせないが、ボス忌野清志郎こと肝沢幅一こと栗原清志に感謝の意を込めて、脳裏に浮かぶことの幾つかを心で書きたいと思う話はあちこちに飛んでしまうかも知れないけれど、経験からの言葉だけで書きますので、読んで下さる方はおつき合いください。
 
 それにしたって早過ぎる。あまりに早いぜ神様!なんでアンタは、こんなに “いい人” をこんなに早く連れて行くのだろう...とっくに連れて行けばいい悪人は世の中に一杯居るというのに... でも彼が死んでしまったのが本当の事なら、もう二度と変えられない事実ならば、こう思うしかないよ。彼は闘って生き抜いたんだよね。自らの血とも、社会とも、音楽の上でも。そして病とも。ずっと前線で。それは、本当に大変なことだったろうね。
 R&Bソウルへの傾倒がクローズアップされていたけれど、日野高校時代にデビュー以来、彼自身ががずっとこだわって来たのはROCKであるかどうかだったと思うな。サウンドじゃなくて考え方や行動全てに於いての話。破廉ケンチが在籍していた頃から、清志郎のフォークギターの鳴らし方もROCKだった。最近のおしゃれなロックおじさん的な印象を思い起こす方は多いだろうが、ワタシはチャボこと仲井戸麗市が加入してからバンドスタイルでのし上がってゆく'80前後の彼の目が忘れられない。派手なメイクの話じゃない。眼光の鋭さ。現在のビジュアル系がスタイルとして恨めしい目をカメラに向かってポーズするのとは、全く違う。猛禽さ。ボスはもう運命を背負う決心で、公衆の客の前ではヤるかヤられるかの橋を渡っていたと思う。(上手く言えないんだけど...)


 派手な衣装とメイクで飾り、マイクでがなりたてたり、ハードなリフを刻んだりステップを踏んだり、デカいアンプで大きな音を出して歪ませたり、ましてや速いテンポや8ビートのノリ、ーそんなのがROCKな訳じゃない。そして今で言う「〜っぽいアレンジ」って話じゃない。スタイルじゃない。ましてやファッションじゃない。
 例えば、町蔵だってINUでVo.していた時だけがPUNKだった訳じゃない。小説家への転身っていうより、その挑戦やモノを創る過程や姿勢は変わってない。全く変わらない。やっぱり彼はパンクス。=ROCKだよ。だけどPUNKだけがROCKって言ってるんじゃないんだな。なんて表現すればいいのかな...難しいな。
 清志郎もPUNK上陸当時は凄い衝撃だったと書いていたし、一寸其の話をするとね、乱暴に言えば「総てが解りやすい」んだな。アバンギャルドって位置づけられちゃってる中にも、ハードコアって中にも、共通して流れるPUNKの精神っていうか、それは時代の流行なんかに左右されるモノじゃなくて、それこそROCKの一番解りやすい形。具現の仕方・姿勢が表に出ているからね。シンプル。でも「だからこそ難しい」っていうのもあるんだよ。その日の飯に困った事も無い、初めから自分の部屋が在ったなんてぼんぼんやお嬢様が、年頃の反抗心だけでPUNKの方法論だけマスターして演奏してたって直ぐばれちゃうから。そんな輩の吐き出したものは、唯のオナニーで終わっている。 
 アーティストなんか、別に偉くない。皆オナニーさ。排泄物を披露しているのさ。少なくとも創っている当の本人はその意識(客観)を忘れてはいけないとワタシは思う。出してみせなきゃ生きれない自己のサガとか業とか、言い換えたらそうせざるを得なくて “決して鏡に写し出せない自分を探して” 自分の為にもがいてる
唯、そこにタマシイというか、受け売りじゃないファッションじゃない自らの経験からのナマの声を全身全霊で出せた時にだけ、他人の心を根底から揺さぶり、人生を変えてしまう様なパワーが生まれるんだと思う。誰かを助けられたり心から悦んでもらえたり、他人と共有出来る見えないチカラが生まれるんだと思う。同じオナニーでも其処に普遍性が生まれるっていうか...そしてその普遍的なものって得てしてシンプルな形であったりするんだよね。シンプルなものほど難しい」って、何に於いても同じだと思うし。 もうこれは昨今のJポップとかのシャカシャカ軽薄サウンドを陰で操っている人達とは全く別次元の話。清志郎も生前あちこちで呟いていたさ。「あんなものは唯のビジネスだね。全く聴く気がしない。耳が腐っちまう。そこに心がねえヨ、感じられない。奴等は先ず先に金儲けしか頭に無いのさ。そりゃ、違うだろ?俺は違うと思うな...」

 (話を戻そう。)ROCKやJAZZはさ、生き様なんだよ。離れられない人。演っているかどうかだけじゃなくて。音楽を愛しちゃってる人たちみんな。それはさ、派手な乱チキをやるとか、物を壊すとか、兎に角すぐ反対を唱えるーとかじゃなくてさ、そんなんじゃなくてさっ。 清志郎がさ、自らの声に従いながらジタバタジタバタ暗中模索する、闘う、その生き方・歩き方がROCKだったのさ。"自分の内側のタマシイの、声に成らない叫びをちゃんと聴いて生き続ける" っていうか。ごまかさずに生き続けるっていうか。生き〜」を「悩み〜」とか「もがき〜」に変えたっていい。だからさ、初めの方に書いた “闘い続けた” って結局は “自分と” なんだよね。 自分との闘い。 “続ける” って難しい。凄く難しい事だと思うんだ。 俺は(あ、俺になっちゃった...)別に「それだけが素晴らしい」とか、“絶対だ" なんて言ってるんじゃないんだ。本人たちだってそんな発言してないだろうし、もしかしたらそんな意識は「若い頃はまあ...」位かも。否、そんな筈無いな。いつまでもそんな事言ってたら恥ずかしい〜とかじゃなくて、“言わずもがな”決まってるだろ?って次元の話かもね。
 でもそうだな...こうは言えないかな。原動力。源。己の核の部分。旅のスタートにあるんだと思う。ROCKっていう隕石に衝突しちゃったあの頃に。この場合のROCKってコトバをJAZZやPUNKに変えても同じことだし、例えば “旅” に変えても同じかも知れないし。“小説”とか“絵”でも同じだよね。「捕われの身で自ら良しとする」みたいな。「ワタシ捧げます」みたいな。 たった1曲、たった1フレーズに気がふれそうな位にはまり込んで、ずっとそれが頭の中で鳴っていて...このブログ読んでくれているアナタにもそんな経験が?「もう何なんだ!この凄い、何か、こう、熱くなる感じ!」とか「これだよ、これしかないよ!これに出逢いたかったんだ〜」なんて感じに過去一度でもまってしまった昔の少年少女だったら理解してもらえる筈。読んでいるアナタが今尚、その頃に感じた何かを忘れないで生きていたならね!



 ここで私事。国立〜国分寺間の多摩蘭坂を友人と訪ねたのは2回。10代後半の話だ。丸石を組上げた昭和の石垣が緩やかな坂道の脇にズラーと続く、そんな只の寂しい景色だった。近くで見ると其処かしこファンの落書きだらけだった。書きにくい石垣にびっしり。「北海道から来ました!」とかさ。俺たちは誰も何も書かなかったな。ひねくれた若者だったからね。友達と3人共RCの大ファンなのにさ、ポケットに手を突っ込んだまま、たしかバス停に設置してあるコカコーラのベンチとかに座って煙草吸って。近くのアパートを物色しながらどの部屋から眺めた月を彼が歌ったんだろうかーなんて考えたりした事を覚えている。当時好きだった彼女と「スローバラードは私達の唄だね」なんて言ってた時代。同じ会話した二人はこの時代一杯居ただろうな。「雨上がり〜」「トランジスタ〜」「スロー・バラード」は俺の世代誰でも知っていたと思う。それくらい毎日ラジオで何かしらかかっていた。だから悪く言う奴らも必ず居たし。
 中学生の時から或る人の影響でRCを知っていて。「あの歌が思い出せない」とか「三番目に大事なもの」「泥だらけの海」なんかの歌詞をノートに書き写してた。それ迄に出逢ったコトバとは全く違っていた。知らない言葉も多くて辞書引いてた。清志郎は言葉も教えてくれたんだな。詩を書く様になった原点はここら辺にあるのかもね。ビートルズの洗礼も丁度その頃ラジオ番組「SAY!ヤング」か何かでかかってモロに浴びて。だから大変な時代だよ。学校行きたくなくなるし。親や身の回り総てが嘘っぽく見えて来たのもその頃からだった。それ位、自分の中に眠っている爆弾に火を点けられちゃう位にROCKの衝撃は大きかった

 初めて小遣い貯めて買ったLPは陽水の「氷の世界」でね。次に親切なレコード屋の店員に薦められて、お年玉で(笑)ビートルズの「S.P.L.H.C.B]を買ったんだった!13歳の俺には何だか難しかったな。唯ジャケットやアートワークにショックを受けた。サイケデリックなんて言葉を知るのもこの頃。やっぱ辞書引いたもん!俺、直ぐ辞書引く子供だったんだ。授業中もよく辞書読んでた(笑)。ところがサイケなんて載ってないんだな。その頃、たまたま本屋で何か音楽雑誌の別冊サイケデリック・カルチャー特集みたいなの見つけて。相当高かった。1400円位したと思う。当時の年齢からしたら超大金だよ。(まあ今にしても大金だな...苦笑!)何日か悩んで買ったと思う。買って走って帰って、それから毎日見たよ。端から端まで、写真のキャプションの小さな文字の全てをつぶさに読んだ。又その影響は半端じゃなかったんだ。ノートや教科書や学生鞄(あ、お金が無いから革の手提げじゃなく帆布の肩掛け鞄ね)に、ワケのワカラナイ文字や模様をやたら描き出し始めたもの!職員室に呼び出されたよ「君はなんでそうゆう所に描くのか!?」って怒られた。でも止めなかった。自分としては、以前に描いたのがヘタクソに見えて「描き直したいっ!」ってのはあったけど。煙草を覚えたのも勝手に一人である日突然だった。その本の影響もあって、普通のハイライトかなんかをマリファナだみたいに自己暗示にかけて(大笑!)
 中学3年の受験前に「ビートルズとJ.レノンのソロは全部揃えよう」と秘かに誓ったんだ。ジョンが殺されちゃって、もうワケが解らなかった。あの時初めて、ショックで眠れない夜ってのを経験したんだ。その日前後の新聞の切り抜きとか、電車の網棚や駅のゴミ箱で拾った週刊誌の切り抜き、あれこれ貼付けたスクラップ帳をまだ持ってる。(みうらじゅんみたいだな。)当時は未だジェファーソン・エアプレインとかジミヘンも知らなかったし、ボディペインティングのお姉ちゃんの裸は別の意味でも見てた頃。だから俺にとったらサイケ=ビートルズ=J.レノンだった。ホワイトアルバムに付録の彼のG.ジャンに丸メガネの写真を、部屋の一番いい位置に神棚の様に飾ってた。ストーンズの恰好良さが解ったのはもっと後、むしろ20代に入ってからだった。

 邦楽ではRCの「シングル・マン」を先ず買った。他のと迷ったけど福生時代まんまの裏ジャケットのセンスに打ちのめされて!ありゃ完全にブッ飛んでる世界を再現してるんだな。或る意味、昭和サイケだよ。個人的にはヒット曲より1st.〜「シングル・マン」を愛していたこの3枚は全曲大好き。歌詞なんか凄い深い。(まあ普段から流行のポップスを聴き慣れている方には強過ぎて薦めないけど。決してBGMには成らないもの。)以降の作品ではメジャーになってから焼き直した「まぼろし」「お墓」「Oh! Babyとか自分に重なってね。未だに何処へ行ってもよそ者だな俺って感じたり。直ぐイントロのチャボのギターが頭の中で鳴るもの。他は朋友泉谷しげるとの誤解からの怒りを歌った「あきれてものも言えない」なんてあまりの格好良さにしびれたな。ホント「しびれた」って感じだった。高校で実家を出てアパートを借りてさ、バイトはしてたけど稼ぎなんてたかが知れてるし。いっつも腹空かしてガリガリだったな。夜になるといつも寂しくてさ、よく「多摩蘭坂」を口ずさんでいたっけ。
 
 当時、邦楽でメジャーな中ではもうRCサクセションくらいしか聴いてはいなかった。レイジーがラウドネスになって「こいつら凄いぞ」って、仲良くなった新聞配達の兄ちゃんの薦めで聴いたんだけど、なんか当時の俺にはしっくりこなかったな。(彼らも未だに熱く続けていて凄いよね。でもDs.の樋口さんも死んじゃったよね...寂しいね。歳とるってこうゆう事なんだね。自分も気持ちに身体がついていかないジレンマあるしさ。周りの先輩達はだんだん鬼籍に入られるし...こんな何とも言えない寂しさは20-30代は解らなかったな...)
 そうそう、17の俺は金なんか無いし当然新聞なんかとれなかったのに配達の兄ちゃんと、お互い当時から珍しいくらい長髪だったから「あの〜ロック何聴くの?」なんてノリでだんだん仲良く。フロムAが創刊された頃で、よくバイトの募集に「長髪・染髪お断り」って書いてあったな。髪のばすのは今より根性要る時代でね。会う度に母親が「頼むからもう少し切ってくれ」って腐る程言っていたな。だから、そうゆう意味でも清志郎は凄いんだよね。もっと前から独自のスタイルでさ。ジョン・レノンの髪型や眼鏡と同じでさ、流行とかまるで気にしてるんじゃなくて、自分だけがいいと思うから、自分にとって自然な流れだからやる。誰に何と言われようがやる群れない。孤独を良しとする。それは彼の生い立ちやDNAに関わる話なんだろうけれど。「ぼくの好きな先生」のモデルの先生が手本だった訳でしょ?「あ、いいんだな。僕は僕で。」って教わったのだろうね。言葉じゃなくて、先生の姿勢(生き様)で。

 配達の兄ちゃんは「RCとかはワカラナイ」とか遠慮気味に或る時白状(笑)してた。要は嫌いだったんだね。だって彼、ラウドネスだもん。
 俺は子供の頃から炊事とかしてたから料理がけっこう得意でね、その時も彼に何度か飯食わせてやったんだ。ろくに肉なんて入ってない卵丼みたいな物さ。初めの時、差し向かいで食ってたら彼泣いちゃってさ。田舎から出て来てこんな事初めてだよって。ポロポロ...涙拭きながら食っていたよ。今もはっきり映像で覚えている。俺、凄くその気持ちが解るからさ、あの時何も言えなかったな。
 でも実は俺もそうなんだな。他所様の御宅で御飯を戴くとどうしても異次元空間に堪らない気持ちになって困る。これどっかのインタビューで清志郎も話してたよ ー ずうずうしく友人宅にお邪魔するのだが、そこには母親や姉さんなんかが居たりする訳で、「しっかりしなきゃダメよっ」なんて忠告されちゃったりするんだけど御飯なんかもよそってもらっちゃったりする訳でして。「ああ、なんだかやっぱりこうゆうのいいなあ〜」とか羨ましくなったりして何とも言えない気持ちになる ー とかなんとか...。読んだ時笑ったな。「同じなんだな〜」って。

 でも彼、新聞配達の兄ちゃんはさ、メモ残してどっかに行っちゃったんだよ。何だか信じがたくて新聞店に聞きに行こうかなって思ったんだけど止めた。たしかに違う兄ちゃんが毎朝夕配達し出してね。カブの排気音がやけに寂しく感じたもんさ。彼、故郷に帰ったのかな。東北地方だったかな...よく覚えてないや。大体、名前忘れちゃったもの。歳は2-3歳上だったかな? 今頃どうしてるかね...
 俺ガキだったし年下だったし、でも「彼となら趣味が違っても一緒にバンド出来るかな〜」なんてこっそり思っていたからさ。高校で組んでいるバンドの奴らは軽い奴ばっかりだったし、何もかもがみんな横並びでさ。みんな勉強は陰でバッチリしてて、ROCKは趣味。そう言い切ってる奴までいたな。受験とか近づいて来たら「いつまでもROCKとか言ってられないじゃんか」ってニヤけた顔して言い出す奴まで居て。真面目にショックだったな。長髪だった軽音学部の奴等、端から髪切って来やがってさ。本当に俺は自分の目を疑ったよ。『いちご白書をもう一度』かよっ!って真面目に叫んでたよ。「な、なんなんだ!」って思ったさ。君たちにとってROCKって、そんなものだったの!?って。
(あ...自分の青春記になってしまった。それは本当に書きたけりゃ、又別の機会にしなきゃね。)
  
 [この記事は『30. いきざま(2/2)』につづく]

 
ボスの素顔.jpg

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リュウタ

gemini-doors さん、いつもプログ拝見しています。

忌野清志郎 さんのことははっきり言ってあまり知りませんでした。だから、今日の内容を4回読んでみて、gemini-doors さんの気持ちがほんの少しだけれども、理解できたかもしれません。

清志郎さんが癌にかかったこと、そして再発したことは知っていました。癌の再発は死刑宣告と同じなので、ぼくはそれを知った以降、清志郎さんのCDが聞けませんでした。聞くとなんだかそれが最後になるじゃないかという想いがして、そのような意味のない強迫観念にとらわれていました。そして、とうとうその日がやってきたのでした。

昨日、久しぶりに清志郎さんのCDを聞きました。gemini-doors さんが別のところで書いていたでしょ。トイレ掃除をお前がやれば世界は変わるんだよと。実に印象的な言葉でした。うまく言えないのですが、清志郎さんの歌詞にも同様な想いが感じられるように思いました。
by リュウタ (2009-05-06 19:51) 

gemini-doors

リュウタさん、前回の返信してないでごめんなさい。ワタシは貴方の様に本音で向かってくれる人を無視したり、ごまかしたりは絶対にしませ〜ん。けれど、人生色々あるもんですよね。思いがあっても実際に行動出来ない時も多々あるもんです。
何日先か何ヶ月先か判りませんが、当ブログがもし休む事があっても、戴いたコメントはしかと読んでいますし、又いずれ、話の内容は前後左右するかもしれませんが、お便り(その気持ちで向かってますから。)させてもらいますね。

キヨシローに対する想いの8割方位は書き込めたと思います。ワタシにとっては彼はメジャーなミュージシャンの中で唯一いつも本音を言っている、というより“言わなきゃならない事や、大好きな事を好きと、ちゃんと作品にしてきた人”なのでした。
ワタシは八王子で育ち府中の高校に通っていたので、中野生まれ国分寺育ち後武蔵野うろちょろーという彼が創る歌詞がまるで自分を歌ってくれている錯覚を起こす位に、好きでした。
でもファン倶楽部に等は入らないし、今回一般のお別れ会にも参列しません。でも未だ不図涙が溢れて来てしまい困っています。他人の死でこんなに泣けるのは祖母の時以来ですわ。

幾ら何を偉そうに書いた所で、ワタシは家族を解体させ何人かを確実に苦しませ、自身も未だに苦しんでいるーかなり後ろ向きなネガティブさも抱えているニンゲンです。ブログは自己会話っていうか、客観して冷静さを取り戻す為に始めたのです。
だけどリアルタイムの自慰行為にだけはしない様に、必ず半日〜1日は間を開けて読み返してから送信しています。清志郎の時だけ矢も楯もたまらず震えながら直ぐ送ってしまって...
まあ、そんなワタシです。どうぞこれからも覗いて下さいね。
自分の経験で得たナマの言葉を真面目に綴れば、必ず何処かで、貴方の様な方が読んでいてくれるーつまり、「独りじゃないぞ」と元気をもらえますから!

まあ、ニンゲンは、いいえこの世の中の生きとし生けるもの皆、誰しも孤独ですけれどね。悪い事じゃないです。真理なのですから。

今リュウタさんに何か特別何か伝えたい事があって書いている訳じゃないんです。いつだって自分に、なんです。
彼が書いた歌詞の中から一部抜粋させてもらい今日は終わりますね。
 
 『やさしさ』 by忌野清志郎

責任のがれ 君の荷物さ 
それは 僕のじゃない 僕のじゃない
僕に背負わせないで

誰も優しくなんかない 君と同じさ
いやらしいのさ
誰も優しくなんかない
だからせめて
汚い真似はやめようじゃないか




by gemini-doors (2009-05-06 21:51) 

リュウタ

gemini-doors さん、こんばんは。

返信についてはあまり気にしていません。返事はしたい時にすればいいし、したくともできない時って、ぼくにもあります。だから、気にされないでください。ぼくが勝手に書いているだけです。

gemini-doors さん、清志郎 さんの死が相当ショックだったことがよくわかる文面なので、どう言葉をかけていいのかぼくにはわかりません。でも、ぼくは清志郎さんの死によって、自分を変えてみようと決意したことが1つだけあります。前回に言及したことですが、「トイレ掃除をお前がやれば世界は変わる」という一節です。そう、ぼくはトイレ掃除をすることに決めました。そして、今実行中なのです。今までは妻にさせていたことですが、今後はぼくがやることにしました。どうしてそんな気になったのかというと、世界が変わるかどうかはわかりませんが、ぼくが変わることはできると思ったからです。いや、世界だって変わりうる。

「トイレ掃除」と「世界が変わること」に直接的な結びつきはありません。ふつうに考えてまったく結びつかない。世界を変えるというと、普通は天下国家を考え、全人類、全世界のことを考えることでしょう。でもそのようなことを論じた人が過去にたくさんいましたが、それでも世界は変わらなかった。そのように大きなことを考える人は小さなことに無頓着なものです。

大きなことを考えると同時に、小さなことにもこだわる。社会の仕組みについて考えるとともに、自分のふだんの生活の中の、泣き笑い怒り愛することについても考える。トイレ掃除はその象徴であり、日常の中で自分がやらなかったことをまずはやってみる。それが世界を変えることにつながる。うまく表現できないのですが、gemini-doors さんは自分に向かって書いているとおっしゃっていますが、これはgemini-doors さんから教えられたことです。清志郎さんの歌詞を読んでいると、清志郎さんもそんなふうに語りかけているように思いました。

でも、いつまで続くか、本当はあまり自信がないのですけれどもね。優柔不断ですからね、ぼくは。

by リュウタ (2009-05-12 00:53) 

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