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28. 匂い [詩/『半月と硝子のブイ』]

『梅雨の匂い』

偏頭痛
梅雨の匂い
低気圧
近付いて来る

勇み足の蝉
カラスの営巣
かすみ草
根腐れしている

分厚い雲 鉛色
隣の庭のリラの花
みな徒長
しなだれている

限界だ
いい加減限界だ
苦しくて 息が出来ない
我慢出来ない

君住む町まで
軽自で駆けて
黙って強く
抱きしめたい

黙って強く
抱き返されたい


 2005年の作品。かれこれ20年ポツポツ書いて来た詩の中でも、恋の唄は数少ない。ネットで恋の詩等書き込むなんて事は何だか恥ずかしくて、何処か心の中で止めていた。
 でも5月2日、清志郎が死んじゃって自分の中で色んなものが変わっていった。短い時間にどんどん変わってゆくのが判った。もう、つまらないこだわりや、結局は格好付けて気取っている様な部分は避けようと思う。出来る限り取っ払おうと思う。狭い枠や決まり事に自ら縛られたり、気取りや、出し惜しみなんてしてたら、人生が終わってしまう。
ROLLING STONEなんだ。転がるしか無いんだ。何もかもが、“無常の世界” なんだ。最低限のモラル=「個人攻撃や誹謗中傷や愚痴日記を書き込まない」を守れば、後は恥を晒せば良いのだ。ワタシの人生なんて、大いなる恥書きの歴史なんだ。ワタシ達或る意味、恥を書く為に生まれて来た様なもんじゃないか?何もワタシが書き込むのを恥ずかしがって止めたところで意味が無いよなーと気がついたんだ。小さな枠を決めて閉じ込めるなんて、唯単に自ら、より “自分が狭くつまらないニンゲン” に成り下がってるだけの事かも知れないーと。30数年間かけて清志郎が “生き様” で教えてくれたんだ。

 
 この世の中には恋多き方も一杯居るだろう。街の中でも、インターネットの中でも、「恋をしよう!」「恋をしてるか?」なんて台詞や、その素晴らしさを説いたり薦める台詞は沢山見かける。
そりゃ、日々食材を買うSEIYUで、レジの女の子の対応が(仕事が)丁寧で尚かつとっても(ワタシにとって)好みのタイプだったら...そんなこと一つでも得した様な気分になるし。電車の中で新聞をバサバサ捲るニンニク臭ぷんぷんの親爺(ワタシも中年だけどさ...)よりか、香水等つけていなくて(ワタシは香水大嫌いなのです。気持ちが悪くなるのです。)他人の目等気にしすぎない爽やかな女性が隣の席に座った方が嬉しいよ。そんな小さな心の変化も含めて “恋” と呼ぶのなら、ワタシだって随分と恋して来たのかも知れないけれど。
 けれども...『その人の事を想うだけで胸が詰まり、喉が狭くなった感じがして乾き、苦しくて堪らない様な、その人の幸せを四六時中願って止まなく、その人の背負う過去や現在をその人がそう願うなら一緒に悩んで助け合って生きてゆきたい、そしてその人になら過去誰にも言えなかった辛い経験を話してしまいたいと心から思うー』 もしそんな感じを  “恋” と呼ぶのならー ワタシはそう数多くの恋はしては来なかったと思う。又、数多く恋したいなんて願ったことも無いのだ。格好付けて物申してなんていないよ。本音さ。
 この様に世の中には“はじめ人間ギャートルズ”の時代から色んな女性が居て色んな男性が居るのさ。だからワタシみたいなのが居て、アナタみたいなのが居て良い訳で。普通じゃないかも」とか「外れている」とか、縦横と比較して悩むのは “限られたジンセイ時間の無駄” であり、意味が無いことだと思う。 皆、似たり寄ったりの処もあれば、一人一人がまるで違う処もある。違う個体なんだから違う事だらけで当たり前とも言える。そして、違うからこそ好きになる。そして、似ている匂いも感じると好きになる。感じるというのはコレもう本能の域なのだから!計画するもんじゃないんだな。そう思う。
 
 唯、当ブログ「22. 観れずに逝けるか」にも書いた通りー “幸せ” を実感する時、その対象って人それぞれ、その時々に異なるだろうけど、それを “求める心” って皆が常に持っているものだろうし、その中での、静かで大きな充足感というか満足感というかはさ、何と言うかな...たとえ一瞬でも “誰か大切な人と、何かを「分かち合えた」と実感出来た時” なんじゃないかってね。そう “思い込めた時”なんじゃないかってー そうつくづく思う自分なのだから、いつだってずっと “求めて” は来た。
 ところが!それがそもそも間違っていたんじゃないか、自分は生きにくいとか居場所が無いとか、幼少から何処に居ても感じて来た原因なのではないか、と思い当たったのだ。(いつ、どうして思い当たったかは長くなるので今回書きません)
“求めて” ばかりいるから上手くいかない。いかなかった。求めてしまう心は、それこそ止められないし自然発生的な欲求だ。けれどここで思い当たったというのは姿勢の問題っていうか...

 上記の詩は唯の恋の詩だけど、思い浮かべたのは映画のヒロインでも、リカちゃん人形でも、アニメのでかパイキャラでもない。昨今急増中といわれているの草食系オタク男子みたいな趣味は、一切無い。アイドルを好きになった事も無いし。(あ、昔デビュー前の大塚寧々とは吉祥寺のI公園の弁天橋で会話したこともあってずっと応援してるけどさっ。ーすみません、脱線でした)
 それは決して想いを伝えてはいけない相手だった。当人は知らぬであろう一方的な片想いだった。
詩が出来る前とその後の数年間、ワタシはその人を陰から想ってきた。どうしても、何故かその人に自分と似た匂い(言葉に成らぬもの)を勝手に感じ続けて来た。その人となら求めるばかりじゃなく、自らが与える、そして “与え合う” 静かな愛情を “育める”と思い込んで来た。至極、勝手に。至極、自己中心的に。

 併し、スタートなんて誰もが自らの思い込みに過ぎないと思ったりする。もの凄く思い込めるか否か。その対象が一人のニンゲンでも、一枚の絵でも、一冊の本でも、それは同じ事かも知れない。恋なんか出来る対象はそう現れるもんじゃない。これ迄ずっと、恋した音楽を聴き、本を読んで来た。新しい冒険をした処で根底にそう大差は無いと思う。冒険しないで言ってるのではないよ。彷徨ったりして、今尚してて、そう思っているんだ。
 一度本気で恋した音楽をどうして聴かなくなるだろう。一度本気で恋した小説がどうして読めなくなるだろう。衝撃を受けた一枚の絵をどうして忘れられようか!
年齢や、ステイタスで、気分で、ましてや履歴の勲章の為に、習い事を始めたり、飽きたからといって辞めたり、ほんのちょこっと齧って「やったことがある」そんなものはファッションだ。その様な人たちはファッショナブルに生きればいい。汚いものやオソロシイものは見ずに、触らずに、関わらずに生きてゆけばいいさ。自分の尻の穴も毎日他人に拭かせるがいいさ。そんな、喩えば直ぐ冷めてしまう様なファッショナブルな恋ならば、棺桶まで持って行かなくてもいいだろう。内蔵を裏返すほどに、その相手の総てを知り尽くし食べてしまいたい(あ、カニバリズムじゃないね。これは唯の表現だね。)ーワタシはそんな恋しか出来ないな...

出来る事なら棺桶まで見守っていてくれって位にアンタが好きでどうしようもないぜ!」(現実にはそりゃ又一方的な話かも知れないけど、想いの上での表現だねコレは。)ー少なくともワタシの場合、あくまでワタシの場合、かも知れないけれど... “恋”とはそういうものなんだ。 
乏人だって “好き” に関しては超贅沢になれるのかも知れないんだ。恋の世界に、血統や地位や収入は関係ない筈なんだ。“好き” と思う熱がすなわち “生きようとする熱” なのではないだろうか?そう思ったりもする。しかし、ここが贅沢だと、成就する恋が出来ないのか?う〜む、ハテさて解らない。
 けれども “与え合う” とか “育む” には互いが向き合わなくてはならない。相手が要るのだ。相手が居たところで、伝えなくては何ひとつ始まらない。自分の中でスタートしていても相手に伝えなくては、それは恋に恋している少女日記か猿の自慰の様なものだ。始まらないまま、ワタシは何年間も生きてきてしまった。何故なら、始めるべきではなかったし。そして結局は、始めなかったのだ。
その事について、後悔をしてはいない。したところで仕方が無い。何も行動しなかったという事実、つまり "戻れない過去の時間” があるだけだ。

この詩『梅雨の匂い』を書き写すなら今夜しかないーと突然ひらめいた様にファイルから引っ張り出した。(季節的には未だ早いけどネ。)



対象はなんだっていい。アナタは "本気の恋" しているかい?
アナタもワタシも、誰もの明日は知れぬ明日死んでもそれに関しては後悔しないくらい、何かを、パートナーを、我が子を、誰かを、好きかい!?  心から大切にしているかい「大切にされたきゃ大切にしろ。欲しがるな。与えろ。」陰から言えるのはそれだけ。 


...ワタシは半端なく深く反省している。誰かに対してじゃない。自らに、だ。自分に不真面目な部分が多々あったのだ。だから自分にとって一番辛い道を選んだのだった。

(そう云えばー 清志郎がバンドスタイルに成った頃から言い出したとされる台詞「愛し合ってるか〜い!?」だって、本当はもっと前(マッシュルームカットの頃)から彼は呟いていた。思えばそれこそは、J.レノンの "イマジン" と或る意味同じ様に、誰もにとって、要はジンルイにとって普遍的なテーマでもあるし、第一、彼自身が幼少期から愛に飢えていたのだと思う。つまりここでも “受け売り” じゃなく、内側からの自然発露の声だったのだと思うんだ。時代の波に乗っかったんじゃない。時代は一人一人みんなが作っている愛とは先ずは自分を開く事から始まるみんな始めたいのだ。
誰もが飢えていたから清志郎の台詞が受けたのだと思う。でも、ティーンエイジャーのワタシはかなり屈折していたから、「“愛し合ってるか〜い?” か...」なんて呟きながら街を彷徨っていた。彼の歌は大好きだったのにさ。)


But, 自然発露の声や行為だからって、いつだって丸くは収まらないのが我々庶民の現実でもあるんだな〜


只今渦中の各々の恋の石は、どう転ぶのか... 

ダイスは既に振られている。
川面にビルの影.jpg

 


     (只今のミュージック/THE YELLOW MONKEY "JAM" )



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