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30. いきざま (2/2) [ことば・映像・音・食べ物etc.]

[ 26. いきざま (1/2)からのつづきです。] 

 うじきつよしが率いる子供バンドが府中のライブハウスなんかで熱く演っていた。俺17-8歳当時だね。RCを通してPUNKも聴く様になったんだ。ザ・スターリンが調布の撮影所で解散コンサートを演ったのはもう少し後の話になるかな。遠藤ミチロウのライブは今でもたまに行くんだけど、あの頃は彼も過激さの絶頂期でさ。漫画ガロのグラビアかなんかで天才アラーキーが撮ったモロの行為に及ぶ写真のモデルに彼がなってて驚いたよ。ライヴでは生の臓物が飛んでた。彼の歌詞世界はシュールで文学的っていうか、理解されにくかったのかな、マスコミには奇行ばかりクローズアップされて。或る意味PUNKのアイドル的に祭り上げられていたんだ。右側っぽい位置にいたアナーキーと仲がこじれたのも、軽いファンとマスコミの責任だったと思う。後になって感じたけど、あの頃は「ガロ」も「宝島」も一番 "熱い時代" だった様に思う。模索の仕方が半端じゃなかった蛭子能収平口広美とか異色漫画家が出て来たのもその頃だ。でも食えなかったんだね。三鷹のオスカーでよく蛭子さんに会ったよ。500円で「エマニエル婦人」の2本立て一緒に観てたもん!(爆笑)。ザ・モッズARBが東京上陸、シーナ&ザ・ロケッツの曲がCMに使われたり、バンドブームなんて言葉が世間で言われ出すのはもう少し後だった。後続の8ビートオンリーの自慰としか思えないビートロック集団は、未だ下積み待機中だった。
 俺はといえば、進級の度に単位が足りない分の追試追試で、毎年ギリギリの綱渡りをこなしていたな。宿題なんかやった事も無く、刺激を求めて2本立てビデオ映画館やライブハウスや、知人宅を転々としたりで、もう既に勉学を放棄してるんだから。後々凄く後悔する羽目になるのも、その頃の自分に忠告したところで聞く耳なんか無かったんだ。それでも、どうにか高校卒業まで漕ぎ着けたのはたった一人の教師のお蔭だった。あとは当時付き合っていた女子が「君は違う。君は真面目にやれば何だって出来るんだから。」って、まるでシスターの様に励ましてくれたからに違いなかった。この二人には感謝してる。
 学校内で一番長く過ごしたのはやっぱり軽音学部室。中でもテクニシャンはフュージョンHARD ROCK派はL.ツェッペリンレインボーパープルで、通U.F.O.スコーピオンズエアロスミスPUNK派は洋楽ならセックス・ピストルズ邦楽ならザ・モッズ、女子はユーミンオフコースをコピー、何処の文化祭でもその辺りの音が聴こえていた、そんな時代だった。近くの高校には既にオリジナルでライブハウスに出ているバンドも居て、友人と聴きに行ったらシン・リジィっぽくてさ。好みじゃなくても圧倒されてさ。先を行ってる奴等がまぶしく見えたのを覚えている。母校には1つ学年が上の先輩に上手いG.が居てね。1つ下の学年には彼の弟がDs.をやっていて。二人共背が高くてルックスも良くて、当時から女の子にモテていたな。後のザ・イエローモンキーに加入する菊地兄弟だった。兄さんの方はよくマイケル・シェンカーの生き写しみたいに弾きまくっていた。正当派のロック好きの好男子って感じで清潔感があった。俺は屈折した男子だったから、意識はどんどんアンダーグラウンドな方へ向かって...(笑)。
 周りでRCをコピーする奴は結構居たけどRCは清志郎が歌わなきゃまるで駄目。なかには演奏が上手い奴も居たけれど、彼のVo.は誰にも真似出来なかったし、独自に変えて唄おうとしたって無理っていうか、それくらい彼の声とノリ、グルーブは唯一無二だったから。

 陰ではピンク・フロイドキング・クリムゾンイエスなんかも好きで。この3バンドはそれぞれ別の意味で影響を受けたな。フロイドのDs.ニック・メイスンのもしかしたら全部1/4拍くらい遅れてるんじゃないかと思わせてくれるタメたテンポにもハマったけど、何よりデザイン集団ヒプノシスのジャケットに感動していた。スコーピオンズラッシュ10ccや、この時代の一寸妖しい色気漂うジャケットは大体がこの集団の手に依る作品だったりする。でもあの頃(あ、今もかな?)プログレ聴いてる=インテリとか暗いーって暗黙の了解みたいな(今思えばアホみたいな)のがあってさ。他人との会話にはあんまり出さなかったな。歌詞カードや内ジャケ見ながら、ヘッドフォンで、まるで闘う様に夢中に聴いていた。どんな曲もBGMになんかしたくなかったし、第一ならなかったんだ。何かを探る様に、何かをえぐる様に聴いていた。友達になる奴は皆こんな感じで音楽を聴いていたから、お互いに気に入った曲をカセットテープにダビングして交換したりした。やっぱり手元にきたカセットとも闘う様に聴いていた。初めてアルコールを覚え出すのもこの頃で、酔っぱらって曲の好き嫌いで喧嘩になったこともあったな。まあ、青い春ってやつだね(笑)。
 ニューミュージックとカテゴライズされた音が生温くて嫌いだった俺に、オフコースユーミンをさりげなく教えてくれたのは好きになった女子だった。初めて男女交際なるもの!を経験したのがやはりその頃で。つき合い出すと、先ずどんな音楽を聴いているか「実はこんなのも聴くんだけど、知ってる?」みたいな展開な訳でー初めてデートで映画館に行くとか、喫茶店で何時間も向かい合って話すとか、まあ色々と何もかもが初体験づくしで、バカやって捕まったり停学食らったり含めてまるでチャがソロ1st./The仲井戸麗市Bookで歌う通りのティーンエイジャーだった気がするな。チャボはそんな、愛に飢えて荒れていた頃をナマの言葉でちゃんと作品化して偉いなあって思うけど....

 いい曲いっぱいあるんだよねユーミンオフコースも。最近は昔のヒット曲を焼き直したりしてる時点で、もう終わってると感じるけどさ。きっと今でも昔の曲を聴いたら泣けちゃうな。特にユーミンは恰好いい曲が多かったね。彼女はアメリカ西海岸&東海岸サウンドのエッセンスをいち早くその度に取り入れた、ありゃセンス勝負の人だったんだね。シングルにならない曲の方が好みだったな。もう曲名なんか忘れたし、懐かしんでCD買ったりそんなのは趣味じゃないからその頃以来、全く聴いてないけど。
 でも、たまにラジオとか街でかかるじゃん。切なくなって困るね。けど "癒し"とか "切なさ" を求める心なんてのは、或る意味「余裕あるねえ」って思うタイプだからさ。ひたらないね。ひたるなんて、昔の恋を "懐かしむ" なんて、俺の人生に余裕は無かったな...「ああ、なんであの時あんな事しちゃったんだろ〜」とか「なんでしなかったんだろう〜」とか、要は "悔しむ" ってのはあったかな(笑)。結局は辛い別れの思い出ばっかりだもん。ナマヤサシイ別れなんて当時から一度も無かったな。まあ、"好きになった相手と別れる" ってどんな流れにしろ、そうゆうものかも知れないけど。とにかく俺は俺の人生しか経験していないから...
 
 思えばえばこの頃出逢った音楽の殆どを未だに聴いてるんだな。幾らその後に新しいものを知った処で'70〜'80年代中期の音ってPUNKであろうがプログレであろうがグラムであろうがであろうがであろうが、なんて言うか大元であり、ビートルズストーンズとは違う意味でみんな師匠であり、やっぱり離れられないっていうかテクニックじゃない志し高い熱が(喩え静かな曲でも)核にこもってるっていうかー。邦楽でいえばRC泉谷しげるジャックススターリンや...その前とも、その後の音とも違う、たった今そこにしかない音でありながら後世まで繋がる普遍的な何かがその中にあったんだ。
 原宿のホコ天では竹の子族が流行り、わざわざ新しい服を切り裂いてボロルック、全身真っ黒な服のカラス族、パンクスは上下皮ずくめに鋲打ちでいかに髪を立たすかに凝って。(ディップローションが発売されだした頃だったし、そんなもの知らないし、金が無いので砂糖の1kg袋をぬるま湯で溶いて髪を固めたり、そんな時代だった。)ザ・スターリンを辞めた後のタツヤは4-50cmの髪をツンツンにウニの様に立たせて高円寺の街を歩いていたっけ。新宿のガード下でデビュー前のシオンが懸命に働いていた。年号が昭和から平成に変わる手前だったかな。ザ・ブルーハーツが爆発的に売れ出すのはもう少し後だと思う。「イカすバンド天国」なんて番組が始まる何年か前の話だ。


 清志郎率いるRCは、屋根裏から渋谷公会堂や久保講堂そして武道館へ、急坂を一気に上り詰めてゆくかの勢いだった。時代の何かが大きく変わってゆくーそんなニオイをプンプンさせながらその旋風は凄かったんだ。俺は単位ばかり気にしながらギリギリ卒業するまでどうにか高校に通いつつ、あちらこちらで見かける様に成った彼らの写真を眺めながら、「スゲえなあ〜」「スゲエなあ...」と心の中で思っていた。段々雲の上の人に成って遠くへ行ってしまう様な感じがして寂しくなったのもよく覚えている。下積み時代からのファンにありがちな複雑な心理だった。
 そう... 周りのロック馬鹿達、RCに反感を持っていた奴も、胸の内ではそっと応援していた奴も、誰もが先をゆく彼等を或る意味手本にして、「じゃあ俺たちはこうしてやろう」みたいに考える起爆剤というか、参考に前を見ていたんだ。結局は影響を受けなかった奴は居なかったんじゃないかとさえ思うよ。

(個人的に心から彼の話をするってことは、影響を受けた自分自身の話を中途半端にしてしまう結果となりました...でも以降はなるべく話絞ります。)


 ニュースや世間の清志郎への評価・評論はいつだって表面ばかり捉えてた。捉えるなら彼の生き様だよ。
複雑な生い立ちや、RC中期の薬漬け時代や性遍歴、バンドのピーク越えた辺りに身体を壊してからの東洋医学への目覚めや、数々の裏切りやもめ事、子供が出来てからの意識変化、労働者への応援歌や社会へのアンチテーゼ他、色々やってるから〜と言うのではなくて、色んな "迷い" や "挑戦" が、その "意識" の持ち方が、そして又それをちゃんと "音楽で昇華" させてきた ーその "生きてゆく姿" がまさにROCKだった ーとつくづく思うんだ。病との闘いもきっと同じだと思う。
 彼は神様じゃない。ROCKし続けたザ・ニンゲンだっだ。人生を歌い続けたのさ。彼は自らが望む通りにかなり生きれたんだと思う。思いたい。思ってあげたいんだ!
 彼は自分の生まれた境遇を恨まず、よく消えずに頑張ってきたと思うな。俺は本当にそう思うんだ。苦しんでいた時期もあっただろうけれど、上手く音楽の神様が彼を活かしてくれたんだと思うよ。俺はさ、駄目な奴だから一杯恨んで来たし、いじけて来たし、よく自分に負けちゃうからさ、だから彼がずっと頑張ってるのをどんなに励みにしていたか...好きだった。本当に好きだった。コアなファンみたいに全曲集めたりマニアックに聴いたりは全然しないし、ファングッズなんて何一つ持とうと思った事も無いけどさ。だけども、ずっとずっと彼が大好きだったぜ。
 彼は闘ってきたんだね。疲れたんだね。ワタシ達は静かに目を瞑って彼のソウルがもう安らかに癒される事を祈ってあげるーそれしか出来ないよね。迷い怒りをちゃんと見せてくれた人生の先輩。おかしいと思うことは「おかしい」と、自らがやるべき音楽の世界でちゃんと表現して来たヒト。エッチが大好きで、絵が大好きで、読書家で、またそんな “好きなモノゴトを、切なく、とてもシンプルに歌い上げる、希有なミュージシャン” だった。 “死んでしまった友人や元彼女に言えなかった事を、嘘っぽくはない唄 に昇華する、その勇気が在る作家” だった。何よりも、とても人間臭いロッカーだった。 
でも考えてみれば...だってニンゲンがやっているんだもの。音楽。ROCK。PUNK。JAZZ。SOUL。R&B。人生。何でもそうか...そう?だよね。きっと。 
 ザ・ニンゲンが其処に一生懸命に生きていた。だから俺の内側にズバッと来たり、ジワジワと染みて来たり、チカラを与えてもらえたのさ! 
残された誰もが、もし気取ってスかしてたら、彼はいつだって呟くと思うよ。「オイそこの君、スかしてるんじゃねぇヨ。」「本当の気持ちを言っちまいな。出しちまいな。」って。「オマエの
いきざま をみせろよ」って。

 今『シングル・マン』を聴いています。自分の青春とリンクするあの名曲「スローバラード」まで聴いたら泣いてしまうな...と思っていたら、「ヒッピーに捧ぐ」で涙溢れてきちゃいました...凄過ぎ...名曲過ぎます! 久しぶりの塩分に頬がヒリヒリです。チャボリンコ三浦友和や、泉谷陽水チャーや、彼と共に時代を歩んだ濃い関係者たちは、それは深い悲しみに暮れているだろうな...そして愛された子どもたち2人、彼らの心を想像するだけで...
 俺やっぱり未だ信じられないんだけど、ネットじゃ他にも一杯書き込んであるのが見れるから、ボスは本当に逝っちゃったんだと、これでも必死に理解しようとして気を鎮める為にコレを書きました。動揺して馬鹿やったり刹那に走ったりしたら、ボスは怒るだろうよ。いや、違うな。「けっ!ださいぜ。」って小さな声で呟くだろうな。でも、ボス。アナタが居ないこの世なんて呑まずには居れません...


      『ヒッピーに捧ぐ』 忌野清志郎

お別れは突然やって来て すぐに済んでしまった
いつものような 何気ない朝は
知らん顔してぼくを起こした
電車は動き出した 豚どもを乗せて
ぼくを乗せて

次の駅で ぼくは降りてしまった
30分泣いた
涙を拭いて 電車に乗り込んだ
遅刻してホールについた
ぼくらは歌い出した
君に聞こえるように 声を張り上げて

空を引き裂いて 君がやって来て
僕らを救ってくれると言った
検死官と市役所は
君が死んだなんていうのさ
明日 また 楽屋で会おう
 新しいギターを見せてあげる 
    

清志郎/シングル・マン裏ジャケより.jpg


 追伸 忌野清志郎サマ。あなたの創る曲に、どれだけ胸が高鳴ったり、心を鎮めてもらったりしたか判りません。どれだけ自分の景色を重ねさせて貰ったか判りません。
ワタシはあとどれくらい生きれるのかは判りませんが、きっと生涯、あなたの創った詩やメロディーは胸の中で泣いて、切なく煌めくのだと思います。
清志郎! キヨシロ〜! ありがとう! 本当にありがとう。
そして、お疲れさま。もう、どうか休んで下さいね。

 心の底から彼の冥福を祈ります。

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過酸化水素水

清志郎にならどんなことでも包み隠さず言える。
きっと聞いてくれそうな人だから。そんな人だった。

彼が作った曲・詞、文章・発言・・・。
僕はそれから僕がこれからすべきことを見つけて実行するだけさ。
全ては自分の責任で。ただそれだけさ。
by 過酸化水素水 (2009-05-20 22:42) 

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