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62. あいかわらじゅ [ことば・映像・音・食べ物etc.]

久方。
随分、マが空いた。
何度かマが差した。
幾度かマに受けて、幾度かマに刺されたっちゅう訳だ。
痒くない。痛くない。悲しくない。マ否。
でもマが気になり出して限界、ってのが今回っちゅう訳だ。
よくワカラナイね...相変わらず。別にいいんだ。いじけてはない。
相変わらず混乱しているんだな。頭の中も、胸の中も、部屋中が混沌としている。
部屋は掃除すりゃいいのさ。でも他は仕切れないさね。

あんまり久し振りなので指が震えて “相変わらず” を “あいかわらじゅ” と打ってしまったよ。
すると、 “相川等ジュ” なんて変換されてしまったよ。
もう一度キーを打ってみたら、 “愛川等ジュ” と成ったよ。
一瞬見つめてたら、何故だか愛川欽也を思い出したよ。ホントだって!
それも、『トラック野郎』での “やもめのジョナサン” 役のキンキン。
『男はつらいよ』の対抗馬として立ち上げた、あのシリーズさ。
判り易いエロ&グロ満載の喜活劇は動的で、カッコよく云うなればロードムービー!でもハチャメチャな。
子供のワタシはドキドキして観てたっけ。
ワタシは寅さんも、桃次郎も、両方好きだよ。裕次郎なんかよりずっと。
ATG系列や寺山修司にハマる前、10代前半のワタシは吉永小百合と酒井和歌子が好きなガキで。
周囲はピンクレディーのミーちゃんとケイちゃんのどっちが好きかを言い合っていた頃で。
尋ねられりゃ一応「どっちかって言うとミーかなあ〜」なんて話を合わせながら、ホントウノコトは誰にも言わなかった。言えなかったんだね。
吉永小百合のブロマイドは引き出しの隅に隠してあった。
裏にカレンダーが刷られている、つまり本屋か何処かで貰ったオマケだ。写真の中で彼女は本を読んでいた。
今でもその一枚だけは、大事な物入れの空き缶の底に眠っている。
昔「なんで小百合って書いて “さゆり” って読むんだろう...」と何度も思った事を、今でも名前の当て字に遭遇した際によく思い出す。

      *

今年も色んな人が逝ってしまわれた。
キヨシローがもう居ないなんて、未だ信じられないな。未だ冷静に聴けない。
立てかけた『シングルマン』の裏ジャケットが未だそのままだ。元に戻せない。
M.ジャクソンの場合は切なくなるなあ。可哀想。
昔、『ベン』のテーマソングを聴いて泣きが入ったのを思い出す。
トノバンの自死の何と云うか...周到さもショックだったな。同じフォークルのメンバーだった(今は精神科医で作詞家の)きたやまおさむ氏がサンケイニュースに書いた長い寄稿文を読んで、正直参った。勝手に、よく解る気がしたから。
清水由貴子、大原麗子、山城新伍の夫々のケース...ネット等の記事でしか知り得ないけれど、夫々別の意味で考えさせられた。
みんな、ワタシが夢中になってテレビを観ていた頃に前線で輝いていた人達。
誰もの人生に、前も後ろも、表も裏も在るんだよね。
でも考えてみたら、前も後ろも、表も裏も、本当は無いんだよね。

今年は、又親戚も知人も逝った。どちらも事が過ぎた少し後で知った。
其処に関係や、自身の現在を改めて思い知った。

時間が過ぎてゆくね。
着々と。じわじわと。

大切な問題って、なんて云うか...澱の様に低音だな...
或る頃から、一度耳にしたり触れたりすると弦楽器の低音の様に身体の奥の何処かで消えてくれない。
かといって、自分がしっかり考えているか?と問えば、答えはNOだけど。
じゃあ、それなりには考えているか?と問うてもNOだけど。

       *

総じて、重なる自身の体調不良もあって、なかなか元気を沸き起こせない年だったかも知れない。
一月には手の手術も控えている。
血管腫の切除。今秋から何度もあちこちで検査して来た。利き手側なので、心配し出すとなかなか寝付けない。
先月だったか『アダプテーション』と『パルプ・フィクション』続けて観直した夜のことー
自分の右腕を抱えて夕暮れの山道をひたすら走る夢を見て、随分うなされてしまった。
あれは野辺山か海ノ口辺りの八ヶ岳東麓の森の様だった。
およそ知っている筈の森なのに、何処迄も終りが無い。
「うわあああ〜」と “大声をあげたいのに声が出ない” ことに苦しみながら、雨後の流れに掘られ霜で盛り上がりガタガタに成った林道を、いつまでも走り続けている主人公のワタシ。
(上記の映画って、或る意味コメディなのに〜)
外の物音か何かで突然目が覚めた。呼吸を整えてしばし夢を反芻しながら、アゴが変だと気が付いた。
相当に歯ぎしりしていたのだろうか?
その日は一日中、口のあたりがクタクタだった。
長いこと歯医者に通い徹底的に治してからは、歯ぎしりは治まったかと思っていたのに...
でも本当の処は独り身にはワカラナイ。
否、いつだってワカラナイ。本当の処なんて。

でも、『パルプ・フィクション』はタランティーノの原点だし、出演陣の前後の活動から鑑みても、大きい存在な事は確かだ。(なんで “でも、” なんだ?)
コレ以降の映画界にとっても方法論としてみれば或る意味で一つの布石だし、映画好きなら観ておかない手は無い作品だと思う。個人的には、アマンダ・プラマー(脇役だけど)の出演作の中で最右翼の演技という意味でも、何度観たことか。ユマ・サーマンは苦手な顔だけど。トラボルタの太り方は尋常じゃ無いしさ。役の為に太った中では『ポロック』のエド・ハリスに負けない。敬服する。
作品自体とは関係ないけれど、劇中の冒頭での彼女とティム・ロスの会話が挿入されたFun Lovin' Criminalの演奏する "Scooby Snacks" を、グランストンベリー・フェスのライヴ映像で観たけど、実に実に格好良かった。
モロのラップはどうしても生理的に受け付けないのだけど、唯一このバンドは何年でも聴ける。
ミクスチャー・ロックと云うか “ごった煮” という意味で、或る意味レッチリを聴いてもザッパを聴いても、いつまで経っても血湧き肉踊るのと同じかも知れない。トータスをエンドレスで聴けるのと同じかも知れない。

先日は『イングリッシュ・ペイシェント』を観直した。(いつの間にか映画の話だね...)
話自体は割と単純な映画だが、故アンソニー・ミンゲラ監督作品は(所謂エンターテイメントであっても)底に潜ませてあるー偏見や差別や思い込みの愚かさや不確かさへの提言ーが、押し付けがましくなく織り込まれていて好きなのだ。
ひねくれ者のワタシとしては主人公達の “砂漠で燃える恋” に白けつつも、日常に縁の無い風景と、脇役(準主役級かな?)の看護婦役ジュリエット・ビノシュの演技に魅入ってしまった。
古い教会で、恋人にロープを操って貰いながら高い場所に描かれた壁画を眺める彼女の演技ーその表情は、何度観ても温かい気持ちにさせてくれる。撮影としては『ポンヌフの恋人』にインスパイアされたのだろう。
相当に高い位置に描かれたフレスコ画を彼女に観せる為に、ロープワークを駆使して操る彼との構図その演出の意図は、それこそ命を懸けた全身全霊の恋愛の渦にはまりこむ主人公の二人の回想シーンと絡みながら、国や過去の辛い傷を超えて昇華する絆の象徴だと感じた。準主役というか脇役の二人の話が映画全体の象徴とも云えるだろう。
ラストにビノシュが主人公を看取り馬車で去る時に、映画冒頭のシーンが重なる。それは果てしなく続く砂漠の空撮。併しその絵には、空も水も映ってはいない。光と陰が織りなす幾何学模様の砂の大地は、愛を確かめ合った後のベッドシーツやマドンナの首や肩の艶かしいくぼみにイメージとして重なってゆく。
ビノシュは馬車の上でもとても良い押さえた演技を魅せてくれる。それはほんの一瞬だけど。見知らぬ少女と目が合う。ポプラだろうか、並木の間から木漏れ日が走馬灯の様に輝く。そこに前述の空撮が重なる。全て短いカットで。初めて見た際は「もう少し長いカットで暗喩してくれよ〜」と思ったが、今はこれがいいと思う様になった。さり気なくていい。
それは劇中、焚き火やロウソクや事故爆発の出火等の炎や、重要な意味を成す水や、布やロープ等小道具の作る陰影や、幾つもの象徴の使い方にも通じる。カメラワークに於いても編集に於いても、この映画はくどくない。厭らしくはないのだ。さり気ない域だと思える。だからあまりにも判り易い恋愛劇なのに、物語として香りの良い酒の様な味が有るのだと思う。
前述の古い教会。こんなシーンを観ると、凝った演出や過剰な演技や、人生経験の少なさと普段からの飢餓感の無さに依る日本人の若手俳優の甘い顔や演技が虚しい。

スコット兄弟の編集等スタイリッシュでぶっ飛んだ映画もたまにはいい。でも『イングリッシュ〜』等観ると、撮影後のフィルムの過剰編集等を遥かに越えた “熱” が確かに伝わって来る。それは昔『パリ・テキサス』を観た後に席を立てない位に感じてしまった “熱” と同質だろう。
そんな意味で近年作ではジョー・ライト監督の『つぐない』が観て良かった。マドンナ役のキーラ・ナイトレイはやはりかなり苦手な顔なのに、ぐんぐんと物語に引き込まれてしまった。撮影も美術もいい。
身近な社会=家族を、少ない登場人物で描いた作品ならばスサンネ・ビアとマイク・リー両監督作は、今後も必ず観たいと思う。

先程書いた “熱” 。そうとしか書けなかった。
「熱ければいい」ってことじゃない。過剰は時にはいいけど直ぐ飽きる。
妙に押さえて気取ってスカしてるのもイヤラシい。イヤラシいのは御免だ。
でも多いんじゃないかい?気取ってる輩も。今日も一杯居た。みんな寂しい筈なのに。

きっと普遍が込められた “熱” は、時間やカタチやあらゆる物を越えて、こちら側に波動となって伝わって来る気がする。
込めた側と受け取る側の時空を超えた交歓。
大昔にまるで知らない者が描いた絵を観て、何故引き込まれたりするのか...?
ふと耳にした知らない国のトラディショナルな曲に、何故引き込まれたりするのか...?
映画に限らず、音楽であろうが絵であろうが、同じだろう。
何であろうが同じだろうと思う。
どんな仕事も。
生活の全て一つ一つ...
上手く言えないんだけど...

又、こんなことばっかり書いてしまった〜

      *

♫ワカラナイからイキテイル/イキテイルからワカラナイ
掌を太陽にすかして見れば/真っ赤に流れる僕の血潮
オケラだって〜
カエルだって〜
アメンボだって〜

(...なんだこの歌、結局差別してんじゃん!)




  日溜まりが実に恋しい師走の終りだ。



             (只今の脳内ミュージック/NINA SIMONE ”Everyone's Gone To The Moon”)



カネゴン.jpg

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