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71. よすがの歌 from『VENGO』 [ことば・映像・音・食べ物etc.]

どうしても、どうしても胸の辺りに冷たい風が吹いて止まない夜、アナタならどうする?
ワタシならその時に身体が求める種類の酒を呑みながら、時間が許すならばトニー・ガトリフ監督の作品を観る。

『モンド』『僕のスウィング』『ベンゴ』をDVDで持っていて『ガッジョ・ディーロ』『ガスパール〜君と過ごした季節』はレンタルで観たりする。他の作品は未だ観れていない。『ガッジョ・ディーロ』は大のお気に入りなのだけど、買う時期を逃してしまった。今のワタシには中古でも高価な為どうしても手に入らないでいる。
ちなみに Gadjo Dilo とはロマ語で ”愚かなよそ者” を意味するそうで、ワタシはこの映画に出逢った途端に携帯電話のアドレスの頭文字をコレに変えた。その時、観賞後に直感的に自分の人生を振り返って「これほどピッタリな形容は無い」と思ったからだ。衝動的にアドレスを変えたのは後にも先にもこの時だけだ。

さてガトリフ作品。
どれもおよそハリウッド的な派手さや、起承転結の明確さや、大袈裟で解り易い説明的演出や解説やサービスは無い。かといってドキュメンタリーでもなく、ノンフィクションのジャンルにも入らない。それぞれの詳しい紹介や感想は、何処かで他の方が上手に書いているから、ここでワタシは書かない楽をしよう。
唯、「この映画を気に入った者は再び何度でも観るだろう」とは言える。常日頃、自分の立場や気持ちをハッキリと言葉に表して言い切れたり、感情に任せて爆発出来てる方がもしや居たならば、その方は観ない方がいいとも言える。面白くはないだろうから。
余談になるが...いつだったか或る時或る人に「大好きな映画を3つ教えて欲しい」と言われた。3つに絞るなんて到底無理な話なので、ワタシは当時印象深かった作品の中で、作風上異質と思われる3つを挙げた。その中の1つに『モンド』を挙げたのだが、後日その人は「映像は奇麗だったけれど、私は全くこうゆうのは駄目だわ。結局何が言いたいのか解らなかった。」と言うのだった。その人の口癖は「〜が基本ね」と「〜の方が正しいと思う」だった。その人からは良い影響も一杯貰ったついでに、その口癖までも似てしまった時期があった。
「〜が基本ね!」をおどけて言って可愛い人は魅力的かも知れないけれど... (話が逸れた)  


しかし、所謂芸術に触れる際に "正しい" 触れ方なんてのは無いのでは?と思う。
例えば、一枚の絵画の雄弁さは観る者のその時の精神状態や環境によって大きく変化したりする。たとえレプリカやプリントコピーでも、お気に入りの一枚を壁に飾って、毎日何気なくともそうして “絵と一緒に暮らした” 経験を持つ方ならお解りだと思う。総合芸術である映画なら尚更、一本の作品から多様な見方(楽しみ方)は可能かも知れない。(逆に「この様に観て下さい!」みたいな解釈を強制してくる様な映画もなきにしもあらずだけど。)
ガトリフ監督の作品はどれも解り易い答えを言ってはくれないし、最新の映像技術で驚かしてくれたり等という場面も皆無だ。淡々と現地のミュージシャンが即興演奏を奏で、美しい若年と中年のダンサーが踊り競ったり、照れながらも老人が真っすぐ前を見て朗々と唄ったりするばかりの長いシーン等も多い。勿論其処に、主人公や取り巻く人びとの悲哀や喜びが絡み、少しづつ(押し付けがましくなく)観る側ワタシ達の心の中で昇華してゆくのだ。

気に入って再びの観賞後は(所謂ロードムービーとは又違った意味で)きっと自らの心の旅に出ざるを得ないだろう。
それは観光旅行や日程の決まった旅ではなく、憂さ晴らしや気分転換の旅でもない。
自らの〜出逢いと別れや、歩いてきた軌跡、その身体に流れる血やDNAなるもの、ドウシヨウモナサを抱えたまま〜過去を溯り、そして未知へのひとりぼっちの旅だ。
死で限定されたこの世の生き物の、時空を越えたタマシイの旅だ。
其処に於いても、何もかもが不確かで、不確かで...  不確かで......  堂々巡りかも知れない。
どうしようもないアナタやワタシの、自分自身の旅だからー

       *

この監督の作品の特徴、ジプシーやロマの歴史や私達の国ここ日本で云うなればサンカと呼ばれた民について等のワタシなりの思いなども、いつか機会があれば書いてもみたい。
唯、そこでは自身や知人の歴史や、体験を踏まえた上での本音書かずして煙に巻く様な物言いでは赦されないとも思っている。ワタシも時々書いている報告メモみたいな走り書き日記とは違って、喩え匿名でも個人が絡めばより責任が問われるし、内容自体が過去も現在も目や耳を塞がれがちな問題なだけに、とても文字にすることは難しい。
今迄何度か向かおうとする度に、自身の力不足を痛感するばかり。一向に進んでいないのが実状と云える。
唯、ワタシの内側にはずっと・・・
表立って視え難い差別や偏見や争いが、規模の大小問わずどんな社会の中にも在って、ワタシを含め誰もの中に知らず知らず備えてしまった(もしかすると常識やモラルと信じ込んでいる)習慣や、思い込みや、概念が強く牛耳っていて・・・事の “正しい正しくない” や “良い悪い” 等というものは、時代や場所が変わればいとも簡単に崩れ去ったり壊れたりするのに、何故こうも人は傲慢で、何故こうも欲深く、何故... という経験からのジレンマがあり・・・
そんな思いを抱えているからといって、自分のプライベートは(ザ・ブルーハーツ『ひとにやさしく』じゃないけど)上手くこなせるかといえば全く逆であり、そんな身近な "世界で一番小さな社会“ でさえも馴染めず、築けず、逸れてしまった訳で...
だから、いざ書く時はいつでもどこかで、 "自分をポーンっと棚に上げる潔さ" も必要だろうとは思っているのだけど。

ワタシは未だ未だ、或る意味で車谷長吉氏に似た腹や肝の据え方には到達していないので、“匂わすだけ匂わしておいて躱(かわ)す"  みたいで恐縮なのだが。あしからず、いずれ言葉に出来たとしてもそれはかなり先の事かも知れない。
蝸牛の歩みのワタシのペースでは、もしかするとーあの世に行って “もう死ななくても良い” 状態ー そう...時間というレールから降りれたならば、そこで初めて語り出せるのかも知れない。
但し、相手をしてくれる方が居たならばーの話だが。
但し、あの世に於いてコトバなんてものが未だ必要であるのか否かは....??? 
幸いにして今の処ワタシは知らない。

        *

今夜は、風をなだめる為に『ベンゴ』を観た。
劇中、路上に停めた車のカーステレオから空に響く様な大きな音で『アラモの女』という曲が流される。この曲はエンディングのタイトルバックにも流される。
唄う女性の声、かき鳴らされるスパニッシュ・ギターの音色、リズム、その間合い...何とも言えない音楽だ。
「ここに音楽がある!」といった感じだ。
何のエフェクトもかけず、凝ったアレンジも無く、唯ひたすら切々と流れる音...
何故こうも無性に急き立てられ、胸を掻きむしりたくなる程に.....

ワタシは舞台の土地を訪ねたことも、この国の女性との艶かしい夢をみたことも無い。
唯、この歌のイントロが聴こえ出した途端に、胸の奥に吹く風がある程度のリズムを保ってくるのだ。
そしてこの歌声を耳にすると、何故だろう...
胸の中に、一本の温かい川の様な流れが視えてくる。

そう...ワタシは自分自身でその流れを見守るしかないのだ。
その先に青い海が待っているのか、真っ赤な地獄の釜が待っているのかは知らない。
いずれにせよ、水蒸気や煙と成って、
空に昇るのか、何処へ行くのか、
消えるのかー


その歌の訳詩を載せて今夜は終り。



"Naci en Alamo" 


私はさまよう
あてもなく 風景もなく
私には故郷がないから

この指に火を灯し
魂の歌を あなたに歌う
心の弦をふるわせて

私はアラモの生まれ
アラモの女
居場所もなく
風景もなく生きていく
私には故郷がないから

私はアラモの生まれ
アラモの女





 (只今の脳内ミュージック~勿論今夜は直球で!!/REMEDIOS SILVA PISA "Naci En Alamo" )



ジプシーの幌馬車/表紙一部.jpg


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