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72. 揺れて縮れた線描の花子 [ことば・映像・音・食べ物etc.]

ここのところ就寝前に、古い劇画短編集をぼちぼちと再読している。

空気の乾燥から眼まで乾いている為か、はたまた早くも老眼の域に突入したのか、文庫本の活字を追うのが億劫な気がして、ホント久方振りに劇画を読み出した。その殆どが20年程前20代前半の頃、阿佐ヶ谷や高円寺に暮らしていた際、主に中野の "まんだらけ" と高円寺の "湘南堂書店" で購入した本だ。

その頃のワタシは、つげ義春のファンの集会?にも参加したり劇画関係の同人誌に投稿したり、『ガロ』や『ばく』や『夜行』を愛読する隠れ劇画フリークだった。何故隠れ〜かと云えば、表向きは全身真っ黒な服しか着ない “触れば切れそなバンドマン” であり、「ネクラ」「難解」とされる劇画に夢中だとは大声では言えない〜つまり若造だったのだ。所謂アニメには一向に興味を持ったことは無いのだが、1話読み切りの劇画には大いにハマった。話の舞台を訪ねて小旅に出たり、道祖神や古い建造物を写真に収めたり、一方では英米ロックを聴きながら一方ではそんな趣味を持つ変な若造だった。そうして微妙なバランスを保っていたのかも知れない。

 

きっかけは'84年前後『むげん堂』に勤めていた際、当時社長だった舞踏家の澤さんに「おいジンタ、おぬしはコレにハマるぞ。イヒヒヒ...」と劇画雑誌『ばく』を渡された事に始まる。そこには(長い沈黙を破って再び描き出した)つげ義春の『散歩の日々』が掲載されていた。

それは正しく衝撃的な出逢いだった。それ迄に触れてきたどんな世界とも違っていたのだ。

(『散歩の日々』を読んで以来現在に至るまで、焼きそばを見たり食べたりする度に「あなた、焼きそば作るの上手ですものね。」「うむ。好物でもある。」のくだりを思い出してしまう。何故なら、当時内輪でこの会話が大流行りだったから。同僚やバンド仲間も皆なべて貧乏なので簡易な自炊を仕合っていて、互いのアパートに寄り料理をする際には決まってこの会話の変格活用が出た。「あなた、けんちん汁作るの上手ですものね。」「うむ。好物でもある。」とかナントカ...)

 

その内自分でも音楽仲間には明かさず、影でこそこそと(否、こつこつと)描いてみたりした。

専門の用紙や丸ペンやGペン等を買い込んで、暇をみてはしこしこカリカリと机に向かった。コマ割りの線を引く為にロットリングも随分練習した。併しその分、音楽の練習は欠いていた訳だ。作品はマイナーな冊子や同人誌に何回か載せていただいた事もあった。今思えば、自分にしてはやけにメルヘンチックな画風で、なのに必ず死の匂いを含んだ内容だったと思う。読んで戴いた見も知らぬ他人から初めて反響があった際は、震えるほど嬉しかった。...久しくこんなことも忘れていた。薄情な奴だ。

当時同棲していた彼女が、時に厳しく、時に誉めてくれたことが懐かしい。彼女は「私の彼氏はこの様な生き方をしています。先行きが不安です。でも私は彼には才能があると信じて...」とかナントカ、たしかそんな人生相談の様な手紙を(当時日本文芸社の編集長)夜久氏に宛てて出していた。ワタシは或る日アルバイトから帰り、ポストに一枚の葉書を見つけた。それが夜久氏から彼女に向けての返信であった。事の詳細を彼女から聴いた時、やはり若かったからなのか...何も言えなかった気がする。否、余分なことを言っただけかも知れない。

今ならば何が言えるだろうか?ろくなことは言えないんだろう。いつだって肝心なことは何も言えないんだろう...

葉書には青インクで "オトナの字" がびっちりと綴ってあったのを覚えている。内容は覚えていない。

以後その葉書は、いつまでもアパートの漆喰の壁に画鋲で留めてあったのを、古く色褪せた写真の様に思い出す。

 

        *

 

つげ義春・つげ忠男・菅野修・ユズキカズ・鈴木翁二・勝又進・安部慎一etc...大好きだった作家を挙げれば切りが無い。水木しげる先生も好きだ。特につげ義春がアシスタントをしていた時期、背景の植物の描き込みが細かい時期の作品が好きだ。

ワタシはどうやら音楽にしても映画にしても対象が何であれ、作品全体から立ちのぼる匂いに惚れるところがあり、匂いに吸い込まれる様に魅かれると、どんな曲調も画風も結局好きになってしまうようだ。けれども、心底惚れるという出逢いは滅多に在るものではないだろう。

喩えばー 世の中にはつげ忠男の荒々しい線描を「絵が下手」と仰る方も居たりするのだが、どうしてワタシはたった1人だけ好きな劇画作家を挙げるなら彼しかいない。兄の義春の作品も勿論全て大好きなのだが、義春氏は或る意味プロフェッシャルなエンターティナーであり、弟の忠男氏はプロフェッシャルなアマチュアだとワタシは思ったりする。或る意味で兄は中期以降のE.クラプトンで、弟はジェフ・ベックといった感じだろうか?兄は80年代以降のR.ストーンズで、弟はB.ジョーンズ健在の頃のR.ストーンズとも云えようか。双方凄いのだが何かが違う。(ココは解る人には解って貰えるだろう。)

プロフェッシャルなアマチュア・・・創作や表現活動を続けてゆく中で、コレを通す(貫く)ことは、頭で考えてやれる事ではないから難しい。とても、とても大変なことだと思う。

 

 

同世代では山田花子(注:よしもと新喜劇の彼女ではない)を応援していたが、'92年の春、自分で死んでしまった。

彼女の死は数日過ぎてからバイト仲間が教えてくれた。ショックで飯が喉を通らなかった。頭の中でエンドレスに荒井由美の『ひこうき雲』が流れた。

当時「ネタが尽きたのだろう」とか「元々作品に希望が無かった」とか、随分なことを言う人はテレビカメラの向こうにもワタシの周囲にも居た。ワタシは心の中で「はったおすぞ!!」と怒鳴っていた。こんな時のワタシはきっと、彼女が描く(揺れて縮れた線描の)主人公の様だったに違いない。「←コレ心の声」との注釈付きの彼女の絵にそっくりだったに違いない。

 

ワタシは彼女と誕生日が一日しか違わず、青林堂が在った神保町ですれ違った際の不器用さにも親近感を覚えていた。作品は何れも、読後に誰もが決して “元気がみなぎる代物” ではなかった。けれど、勇気有る作家だった。常に、血や涙を絞り出して描ける希有な作家だった。これも又凄いことだ。だからこそ、その代償が大きかった。彼女の描く作品のストーリーや質を言っているのではない。

山田花子はプロフェッシャルなアマチュアのまま、あんなに早くに帰らぬ旅へ行ってしまった。苦しかったんだと思う。今、長い時を経て此所から自分勝手な思いを言わせてもらえば... どんなに休んでもいいから、どんなに寄り道してもいいから、どう変わっていってもいいのだから... 描き続けて欲しかった。否、描かなくてもいいから.....

 

        *

 

余談になるが、一寸ネット内を探ると〜どうやら現在は根強いファンや関係者の尽力もあって、カルト的に認知されているのかも知れないと感じた。

併し、ワタシには逝ってしまった人が「やるべきことをやり尽くしたのだろう」なんて言えないし、ましてや「きっと天国で喜んでいるだろう」なんて思えない。

ゴッホが自分の死後、こんなにも世界中で認知され讃えられているのを、天国で喜んでいるなんて思えない。

彼と会ったことも無いし、話す機会も無いし。第一、天国なんて行ったことないし。

気休めなんか、葬式での大袈裟な涙と似た様なもの。生き残っているそいつが納得する為の、お為ごかしなんだ。

 

「それでもいいんだよ...」と君は言うだろうね。

 

 

 

 

 

 

            (只今の脳内ミュージック/あがた森魚 "春の嵐の夜の手品師"



青い影/花瓶の花.jpg

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