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78. ゼッタイ色 [日々雑感『本日もまた混沌と』]

「人生には白とも黒とも決めつけられない、見分けもつかないことが沢山ある。ほとんどがそうだと言ってもいいくらいだ。 けれど、私にも一つだけたしかなことがある。それは...」
或る映画の中にそんな台詞を聴いた。よく耳にする、使い古された言い回しかも知れない。
でも、そうだ。生きているといつしか、何もかも灰色ばかりなことに気がつく。
外側も、内側も、だ。

      *

絵の具を混ぜて中間色を作ったことが誰しもあるだろう。思い出して欲しい。
白と黒を混ぜて作る灰色は、実に幅広いトーンを魅せてくれた。
例えば赤と青で紫。青と黄色で緑。それはそれで、実に多層な色合いが出来るもので。
濁ってしまったり有毒な反応をおこしてしまう組み合わせの禁忌色を避ければ、絵の具の混食は新しい驚きに満ちている楽しい行為だ。
パレットや小皿の上で産まれた新しい色はまるで「こんなんでどう?もういいんじゃない?ぼくを使ってみなよ!」と声を発してくるようで。興味の無い人には通り過ぎてしまう作業かも知れないけれど、そうして混色しながら何かの拍子にハッとした人も居ると思う。

子供の頃から絵を描く事と釣りが好きだったのは、もしかすると絵の具をいじっている時間や仕掛けを作ったり浮子を見つめたりの時間が好きだったからかも知れない。
幸い小学校で図画工作(懐かしいこの名称!)の杉山ボン先生(ごめんなさい。漢字が見つかりません!)を通して、自分が作った物を人に “誉められる(認められる)悦び” を知ることが出来たし、昭和40年代の浅川は上流に遡ればヤマメやカジカ等食べて美味しい魚が沢山釣れた。つまり結果の満足度も高かったということだろう。だから夢中になれたのだろう。
けれど今になって思い返せば、それらに取り組んでいる “静かなーけれど能動的な時間” が好きだったのだと思う。時が止まってしまったかと錯覚させてくれる、その時間が好きだった。いつまでもそこに居たい、いつまでもそうして居たいなんて思えることはそれだけだったから...

何も起こらないかの静かで集中出来る時間。他の問題を全部忘れて、そのとき僕は幸せだったと思う。やもすると集中しすぎて口が半開きになり、実はよくヨダレを垂らしたりしていた。一人の時にはホントよく垂らしていた。(苦笑!涎を垂らす程の集中、涎を垂らす程釘付けの状態...とんと最近はご無沙汰だ。)
そんな静寂のなか変化は突然訪れる。川面をプカプカ流れていた筈が、突如水中に引き込まれる浮子。脈釣りで、見えない川底から竿を通して手元に伝わるビクビクッというアノ感触!そして机の上でゆっくり混ぜていた絵の具は、ほんの一滴ひと混ぜで驚く程の化学反応を魅せた。そんな瞬間に僕の心は跳ねていた。一瞬で。一瞬で舞い上がり、まだ薄い胸の中で心臓は高鳴っていた。

     *

"灰色" は視覚的にトーンが判りやすいからなのか、一粒の絵の具の滴りを加えただけでガラッと表情を変える場合があったと思う。そう、実にいろんな灰色が在る。
都会のコンクリートジャングルを灰色の世界と呼んだり、灰色と聞くとあまり良い連想をしない人も多いかも知れないけれど。
そこで思うのがーモノゴトを「白黒決めつけた時点で必ず見落としたり “ないがしろ” にされる部分があるもの」だと仮定したらば...どうだろう?逆に結論を灰色のどこかのトーンに浮遊させておくことは、実は次の一手や過去の検証の為にはむしろ得策かも知れないんじゃないかな?ただし、これは曖昧にして忘れてしまえという話ではないのであって。
ちゃんとそのグレーを、美しいとか醜いとか、その時点での好みや狭い現代の常識良識とやらではなく、つまりは判断ではなく、自分自身が “感じる” ことがいいのかなと思ったりする。黙って感じるのが。
それは一つじゃない筈であって。たった一面たった一個の感想しか持て無いなんてあり得ないんであって。真剣に向かえば、それだけ色んな感覚が産まれて当たり前だと思うのだ。

誰しも自分という人間を、ゲームや通信機器のボタン数個の組み合わせで「この人はコノヨウナヒトです」と一刀両断に表されて「ハイおしまい!」では決して満足しない筈。
一個の文句、一行の文をもって断罪出来るほど人間はそんなに単純ではないし、裁きの大王エンマ様ほど偉くはない筈。
この世の中も私達一人一人の内側も、グレーゾーンは多相って話...かな?(そんな話か?)

ああ俺は何が言いたいのだろう...? 一寸書く間を空けたらワカラナクなってしまった。
ちゃんと考えて書き出したりはしていないし、下書きとして読み直して構成し直すなんて気力は湧かないし。
ま、誰もそれほど真剣に読んじゃいないだろうしさ...考えて書けば、それだけ重くなりがちだしね。
やはりこれだけ更新休んでいると殆ど連絡来なくなってしまうんだね...当たり前か!? 
それでも何かを誰かに伝えたいんだろうか?誰でもいいから訴えたいんだろうか?
何年も大きな声出していないから、本当は叫びたいのかな? 
叫ぶとしたら何?なんて言う? .......。
「イキテルヨ〜!」「ダカラサビシイヨ...」そんなものかな?    




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絶対的な神を崇められる強い信仰心を、少しだけ羨ましく思う時がある。
信仰にのっとって暮らすことは、何かの事情で異集団の中に閉じ込められたりしなければ、日々揺るぎない指針に基づいて “守りの姿勢” を貫くことこそが美徳となるのかな?何よりも、その者の自信になるのかな?
人の心の純粋さは、“守る” ことを “続ける” ことを通して、“生きてゆく自信” も加算しやすいと思う。
それが無い自分は時々信仰心を羨ましく思うのだと思う。思うだけに留まるのは、昔知人が新興宗教にハマったり、地方在住時に某真理教信者に間違えられ嫌な思いをしたりーそんな経験からのトラウマだけではない。
幼い頃は小さな教会に通っていた。あの空間は好きだった。賛美歌を歌い、カミサマの話を神父様から聴いていた。病弱でよく寝込んでいたし、子供ながらにしてもカミサマについて考える機会は沢山あった。(この話はまたの機会に)

そう...規律や規則、教えにのっとって動くことは、実は容易いことかも知れない。
学校であれ会社であれ対個人であれ、約束に縛られるって、その時は息苦しくても。
しかしながら過ぎてみれば「ああ結局は楽だったんだな」と気付いたりする。“楽”ってのは広い意味で、です。


絵の具の話に戻すけどー
“中間色” に対して両極の色、つまり白や黒だったり赤や青だったりは、一体「〜色」と呼ぶんだろうか?
勉強してこなかった俺は(好きな世界の事でさえ)名称や理論なんかは知らないことばっかり。
ところでソレがもしかして“絶対神”(そんな言葉あったかなかったか知らないけれど、俺の中ではアリでね。)みたいに “絶対色” とか呼ばれたりネ。
だとすれば(否、だとしなくてもなんだけど...)俺が好きな色、落ち着く色は “中間色” だなあ。中間のトーンの何処かに落ち着く場所があるみたいだ。
それは大人になるに従って、酸いも甘いも経験してきての変化って話じゃない。第一、幼い頃か “絶対色” を好まなかったんだよね。絵の具を混ぜるのが大好きだったワケだから。

そう云えば...どんどんいろんな色を混ぜてゆくと、それがどんな順番であれ、何とも言えない茶色というか濃い灰色になったと記憶している。多くの子は「汚っねえ色〜!!」だと言っていた。僕もそれを “うんこ色” だの “泥” だの言って、訳も無く面白がって何度も作っていた気がする。
せっかく綺麗なピンクや紫や黄緑が出来たところで、塗りたいところにその色を塗った後は、必ずその “うんこ色” を作っていた。
作った後はノートのふちに塗ったり、掌にハンドクリームみたいに塗ったくって手形をつけたり。そして度が過ぎて先生に怒られて廊下に立たされたりした。
(余談だが、今思えば日々の “うんこ” があんな色をしていたら相当病です。医者に行った方がいいです。けれど赤ちゃんの “うんこ” は色んな色があるもので。その前に食べたものが顕著に色に影響するんですよね。“うんこ” だと思わなければ、我が子の “うんこ” なんて「なんて綺麗な色なんだ」と思うことさえありました。あ〜全くの余談でした!忘れて下さい。)

        *

なのに? 人生には “絶対色” で決めなくてはならな場面が度々あるから困る。
「白か黒かはっきりさせなさいよっ!」って、時間制限アリで詰め寄られたりする。
その答えは、決してうんこ色やアースカラーではならないのだ。マークシートで四角い枠と枠の間を塗りつぶしても駄目なのだ。
世界の自然物の総ては必ずや直線で出来ておらず、独自の “中間色” であるにも関わらず!

そして、もっと困ったことには...誰に問われなくとも己の内側でも葛藤があって、とりあえずでもハッキリした答えが欲しい時があることだ。それが出なければ一歩も前に進めない気がしてしまう時があるのだ。
現実には何の明確な答えを出さずとも、時間って奴は止まらないし、総ての事象はどんどん進んでゆくのだけれど。
それに進むってことは、一歩一歩最後の時に向かって、つまり死に向かって “残り時間が減っている” に違いない筈なのに。
なのに前に進みたがってしまう。早く答えを欲しがってしまう。ハッキリさせたがってしまう。
(しつこいけれど、)世界は何かしらの中間色で出来ているのに!
少しよく見れば、考えれば、こんなにも不確かで不確かで、混沌とした世界なのに!

      *

混沌とした世界に一輪の花。僕もあなたもそれに魅せられる。
でも赤い花だってみな同じ赤じゃない。白い花だっていろんな白があるよ。
木々の緑は、新緑の萌える季節以外だっていろんな緑に満ちているもの。

無茶だ、俺には無理だっ〜って思う。しょっちゅう思う。
こんなスピードこんなテンポじゃ、息の根の前に “気の根” って奴が狂ってしまいそうだ。
不特定多数や一般って奴に比較されて “弱い” と烙印を押されても仕方ない。けれども、烙印を押す方達が尻を吹いたりパトロン的行為をしてくれたりした試しは無いもの。


しかしだ。話戻すとー
そんな "中間色" な自分でさえ、例えば冒頭の台詞にあるように一つだけ “たしかなこと” って奴が欲しい時がある。"絶対色" を旗にド〜ンと掲げたい時がある。だから困る。すがる何かが欲しい。弱い心が、そんな波に長期に渡ってを苛まれる。
仲の良い友人には、「人は多重で多面的だよな」なんてのたまう自分自身が、そのことに苦しむ。
たった一個の石を懐にしまい、大切に温めながら、信じて止まず、ブレずに歩んでいけるような....
そのまま死んだっていいから...
健康ばかり考えてダラダラ余生を生きるより、信じれる何かが欲しいと強く思う。


自分にとって、昔たしかだと信じて止まなかったことが、気が付けばいつしか霧の向こうに...
第一に、そんなものが在るんだか無いんだか...
自分にとって、たしかなことって結局は何だろうな...
恥ずかしいけれど、またワカラナクなってしまったよ。
あんなに強く信じていた頃があったのに、中年期にこんなにも揺れて不安に襲われるのか...

自身を信じるって自分には、とても難しいことで。だから当然他人も信じる事が出来ないのか...
自分を励まし続ける疲労に効く合法の(笑)サプリメントが欲しいデス。そんなものが在ったらきっと値が張ることでしょう。悪い事をしたりゴミを増やしたりして現金を稼ぐより、“手間返し” でお返ししたいなあと思います。
否、いけないいけない。薬に頼ってちゃあいけないよね。You Tubeで『ゴミ捨て場の子供達』を観ても判る様に、世界には病気になっても薬を買えない人達が沢山居るのだから!


       *


海図を失くした船乗りは
星を読むんだったか? まず南十字星を見つけるんだったか?
あいにく俺は星座に詳しくないんだった。そう云えば自分の星座すら、どの季節にどの空に輝くのか知らないな...
けれどいつだって雑踏の片隅から、どんな空をも見上げている。夕方になれば、あれは一番星かと無知な視線で探している。アスファルトばかり見下ろしてはいないんだ。
ただね、一寸ね。
 “星を読めない船乗りには "絶対色" をー” ってね...



いつだって揺れ惑ってばかりだ。
あーだこーだと書いたところで、まあサビシイには変わりない。







 (今日の脳内ミュージック/KING CRIMSON "Islands" /K.ティペットの運指間違いまで美しい曲です。)


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