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82. 平塚少女 #1/2(小銭に泣く) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]

先月のとある木・金の二日間、チェーンソーの伐木業務(大径木等)の講習会に行った。
本音を言ってしまえば...先月、坐骨神経痛で3週間も働けなかった身としては、料金自前の講習会は出来ればもう少し先に受講したかったのだが。それは板橋のアパートと小田原の寮との二重生活はもとより医療費や必要経費にアップアップの身だからだ。
林業作業員は日給月給制。先月の収入は7万円に満たない訳でナントモハヤ。無いものとして蓄えておいた最後の10万円を切り崩しながら生活している始末。
加入していた保険で医療費くらいはカバー出来ればいいのだが、問い合わせたところなんと神経痛は病気にあたるそうで、病気の場合は入院か退院後の通院以外支給されない、つまり只の通院では支払われないそうで。そんなチェックをしっかりしないで加入していた自分...ナントモハヤ。
まあ、ここは仕方ない。元請けの会社からこの機会に受講する様にとの御達しがきてしまったので、ここは素直に行かざるを得なかった。

場所はK県平塚市にある県の農業技術センター。林業・木材製造業労働災害防止協会のK県支部主催で催された。
朝9:00〜夕方5:00迄、2日間に渡って日本チェーンソー協会から3人の専門講師を招いての授業や実務訓練。先ず初日は一日中室内でのスライドや本を使っての授業であった。二日目は野外での実習を含め機械の構造やメンテナンスの授業だった。
結論としては「受けて良かった。」である。
実際、チェーンソーは電気の小型の物しか使ったことがなかったし。講習を受けると、やはり初めて知ることの方が多く、自分がいかに素人の域であったかを知った。
たった二日間でもいつもと違う意味での濃密な時間、いつもと違う脳みそを使った気がした。硬い椅子にこんなに長い時間拘束されるのは学生以来だったから、正直それはとても疲れたけれど。総じては、なかなか心地良い疲れだった。
全く見ず知らずの受講生達が計60数名8班に分かれての体験講習等。終えて、二日目の最後は全員が証明写真入りの修了証を貰って、ちょっと晴れ晴れとした顔をしたまま「では又何処かで〜」とか「お元気で!」とか「それじゃ。」なんて言って、各々の日常へ帰って行った。そこには “祭りの後” 的な、一抹の寂しさみたいなものもあって...
会場を出たらあんまりにも寒かったので感傷に浸るどころではなかったけれど。

駅迄の長いバスの車内では年配の方や会社の同僚同士で受講したらしき人たちも大勢居て、大いにおしゃべりに花が咲いていた。でも僕は初対面の大勢とわいのわいのといった雰囲気が元々大の苦手なもんだから、バスが走り出した途端にコノ二日間の疲れをドッと感じたりして。
それに、こんなに長時間硬い椅子に座ることは普段まず無いもんで、じょうぶ腰が痛くなってしまって。背中や首もかなりコリを感じていて、もう誰ともおあいそで話す気にはなれなかった。「おしゃべりはもう充分!」って感じになってた。
イヤホーンでGrace Potter & the Nocturnalsを聴きながら目を閉じた。又此処から先、僕は僕の旅の続きに戻るんだなあ〜なんて思ったりしながら。
しばし閉じていた目を明けて窓の外を見ると、バスは平塚の街中を走っていて辺りは夜のとばり。
家々の屋根の向こう遠くの山並みに添って、かろうじて夕日の明るさが残っているのが見えた。

      *

話は後先になる。
その会場は東海道線の平塚駅と小田急線の秦野駅や伊勢原駅との丁度中間に位置し、どの駅からもバスで30分という距離にあった。
暖かい陽気ならば駅から数キロの道程くらいは喜んで歩いてしまう自分だったが、なにせここのところ冷え込んでいる。暮らしている寮から最寄りの小田急線螢田駅ではなく、電車賃節約も兼ね尚且つ乗り換えずに済む東海道線の鴨宮駅まで、早朝にまずは自転車で20分ほど飛ばさなくてはならず、当然到着駅からの行き帰りはバスに乗ることにした。

ここからは講習初日の帰りの話だ。
僕は「もしかするとこの土地を訪れることは二度と無いかな?」なんて思いながら、バス通りをトボトボと歩いていた。
そう...何も好き好んで、不法投棄の山とゴミだらけの川沿いの風情の欠片も無い排気ガスで煤けた街道を歩いた訳じゃなく。好き好んで、少しでも早く暖かい部屋に帰りたい気持ちを押さえても尚夕闇迫る人っ子一人すれ違わぬ街道を歩いた訳じゃなく。
実は...お金が無かったのです。バス賃が。(え?帰りのバス賃も持たずに出かけたの?/コレあなたの声です。
いいえ。財布の中にはとりあえず福沢諭吉が一枚入っていました。あと小銭が142円ばかし。
でも、でも〜!! 片道のバス賃は360円だったのです。

そうなんです。バスでは万札を両替してくれないのですね。
自分の財布の中の緊急事態に気がついたのは、講習も終わり会場を出た時点でした。
急いで会場に戻り、施設である農業技術センターの窓口で尋ねました。
「あのう...先程そこの会場で講習を受けた者ですが、JRの平塚駅迄バスで帰るんですけど...ちょっと教えて欲しいのですが、バスって一万円札くずしてくれたりしませんよね?」受付相手は55歳位の女性だった。
「はあ〜?あ...そうですねえ...無理だと思いますが。」
「実は1万円札しか持ち合わせていないのですが、そこのロビーの自動販売機でも千円札しか使えませんし、ここでくずして戴けたりしませんかねえ?」僕はとっても丁寧に、低姿勢で、困った風に、でも笑顔を忘れずに、頼んでみた。
「ああ、そうゆうことはしてません。」即答されてしまった。
でも、ここで引き下がる訳にはいかなかったのだ。何故なら、行きに車窓から外を眺めながら、コンビニはおろか商店の類が何も無い景色に「いったいこの奥に本当に会場があるんだろうか?」なんて不安になった程だったから。
「近くにお店も無いですよねえ?」
「はい。この辺りにはありませんねえ。」
「困ったなあ...どうにかなりませんかねえ?」
「そう言われましても。」
「ワタシ平塚駅まで行きたいんですね。でも朝方ここまでバスに乗って来まして、とても歩ける距離ではないなあと...近くにお店も無いとなりますと、まあ、タクシーを呼ぶかなんかするしかないんでしょうけど、そうはしたくないんです。この講習で知り合いも居る訳ではありませんし、ここで両替して戴けませんかねえ...」
小銭が無くてバスに乗れないのは自分の落ち度に他ならず、正直言って己のマヌケさに呆れるしかなかった。
併し、ここはこの公共的な会場の職員に頼ってみるしか先ずは方策が浮かばず、今直ぐに出来ることはそれだけだったから、僕は必死だったと思う。
併し、「申し訳ないですがー。」受付の女性は語尾が小声で消えてゆく様な声でそう言いながら、受付の窓口をピシャリと閉めてしまった。そして部屋の奥の方に突然何かを思い出した様に行ってしまわれた。
万事休スデアル。
ガラス窓の向こうには7-8人の職員がパソコンに向かったり、ソファーに座って冊子か何かを読んでいるのが見えた。

たしかに帰りのバス賃を読んで小銭を確保しておかなかったのは、我が輩のミスである。
否、たしかに小銭はあったのだ。朝の時点で、「これだけあれば大丈夫だろう」と財布の中を覗いて考えたのを覚えている。
ところが僕は “なっちゃんの赤ぶどうジュース” を持参してきていたものの、会場の想定外の寒さに午前中の休憩時とお昼と午後の休憩時の計3回、ロビーの自動販売機で “温かい飲み物” を買ってしまっていた。大切なことをすっかり忘れて!
110円×3本=330円。今更嘆いても始まらないが、それさえあれば残る小銭と合わせて楽勝でバスに乗れたのだった。

      *

さて、いつまでも見えない何かを恨んでいたって仕方ない。
「景色だけ田舎でよ、オマエらにはもう少し温っかい心って奴はねえのかよおっ〜!」
「明日も来るんだぜ?明日もよ〜!ケース・バイ・ケースってのがねえのかよ、全くよ〜。」
等と一瞬思ったりしたかしないかは読者のご想像にお任せするとして。兎に角、残る方策は唯一つなのだと頭を切り替えて、僕はすたこらと会場を飛び出しバス停に向かって坂道を下り出した。
10分程下ってバス通り、ホント何も無い街道に出た。バス停を見やると其所にはもう誰も居なかった。万事休スデアル。
もう立ち止まっちゃいられないとばかりに僕は駅方向に向かって歩き出した。
夕闇迫る煤けた街道で、坐骨神経痛の残る踏ん張りが効かない右足で軽くびっこを引きながら、「そのうちコンビニでも見えてくるさっ!」と自分で自分を励ましながら、苦い顔して歩いていたバックパック姿のチョンマゲ男は僕だ。

誰にも逢わなかった。
ハザードランプを点け始めた通勤帰りの車が、しきりに行き過ぎるだけ。皆、結構飛ばしている。早く帰りたいんだろうし、当然だ。
こんな時、見通しの良い一本道で、やっと現れた車が少しでもスピードを緩めてくれたなら、僕は昔を思い出して親指を立てていただろう。
切り通しの間から見える狭い空に、鳥たちが三角形に群れを成して飛んでゆくのが見えた。

一台の自転車が反対側の歩道を行き過ぎた。
パート帰りのおばちゃんだろう。スカーフとマフラーで完全防寒。目だけ出して脇目も振らず、でも運転はゆらゆらと危なっかしくて、とても話しかける雰囲気じゃなかった。

かなり歩いた。歩くことだけを目的に良い姿勢を意識しながらテクテクと歩いた。
そして、やっと無心になってきた。
ふと、同じ歩道の前方に黒い人影が...

黙々と歩く男性。同じ歩道側を、ズンズンとこちらに向かって近づいて来るのが見えた。


(次回『平塚少女 #2/2  につづくー)









       (只今の脳内ミュージック/THE HIGH-LOWS "荒野はるかに")






道スナップショット 2011-01-30 10-28-03.jpg







77. もう要りませんから [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]

梅雨が明けたなんて知らなかった。

「梅雨って明けたんですかねえ?」と尋ねるワタシに、
会社一番の長老Mさん(びちっと角刈りで1年中草履履き)が
「バカヤロウ! おめえ、あの雲がもくもくと入道雲って奴に変わったら梅雨明けだろうが〜!」と言った朝に、梅雨が明けた。
(ちなみにMさんは、会話の冒頭におよそ80%の確率で "バカヤロウ" か "てやんでえ" を付ける。真四角の輪郭に鼻下の髭、顔がまるで下駄みたいな爺さんだ。そして、野菜が嫌いで、パンが好きで、膝が悪い。仲良くしたくても悲しいかな体臭がキツ過ぎてチト難しい。そして頑固の塊で、誰の言う事も殆ど聴かない。)
結局ワタシは現場のマンションが在る新所沢の吉野家でうな丼のお新香付き定食にコールスローを追加した昼飯を食べながら、背後の3人連れの声のデカい客(土木業者か?)の会話の中から梅雨が明けたことを知った。

以前Mさんはワタシにスープセロリを沢山くれた。
「K君(ワタシのこと)スープパセリって知ってるかい?食べるかい?」
「何ですか唐突に?スープセロリなら知ってますけど。」
するとMさんは何でもかんでもぐちゃぐちゃに詰め込んである550ccの軽自動車の中から、おもむろに新聞紙に包んだお供え用の花束みたいな物体を取り出してワタシによこした。そいつは、やっぱりスープセロリだった。
「コレどうしたんですか?」と尋ねると
「婆さんがよ、こうゆうのも食べなさいって送って来たんだよ。」とMさんは照れながら言った。
「Mさんの分は?」
「バカヤロウ。俺は野菜は食わねえんだっ。」
「駄目ですよ、せっかく奥さんが送って来たんだから食べなきゃ。」
「ん、まあ、そうだがよ...ま、少し齧ってみたけどよ、やっぱり駄目なんだよ。こんな草みたいなもんは人の食うもんじゃあねえよ...」
「草って...。...........。まあ、Mさんがくれるって言うなら俺貰いますけど、本当に全部いいんですか?」
「ああ、いいって、いいって。貰ってもらわなきゃ困るんだよ。捨てるのは勿体ないしな。どうしようかと思って思案してたんだ。君ならこうゆうの食べるんじゃないかと思ってな。」
「でもMさん、コレ随分しおれてますねえ。」
「ああ、三日くらい前に送ってきたのを、ずっとほっぽってあったからな。」
「えっ.....」

新聞紙に包んであったスープセロリの束は、根っ子の部分が水を浸した紙ナプキンに巻かれ、ペットボトルをくり抜いた入れ物に入れてあった。でも随分しなびて、ふにゃふにゃにうなだれていた。

その晩、例の如く残業をこなし、遅くにアパートに帰宅したワタシは、その "草" の束の半分をシーチキンと食べた。そして翌日の晩、一日水に挿して復活した残りの半分を食べた。

以前山梨で長いこと畑をやり野菜を育てていた内、アッと云う間に自分の舌(味覚)が変わってゆくなかで、セロリとパセリは極端に好物に変わって行った代表格の野菜だった。
その前に東京に暮らしていた際はやはり "そんなもん" は「食べなくてもいいや」って類の "草" に過ぎなかった。あの頃は少しでも多く肉が食べたかった。バイト先の先輩に何か奢って貰う時は決まって「焼き肉っ!」と言っていた。
それが27歳で山梨の山村に移住し、畑をやる内にみるみると野菜好きになり、釣りをするうちに魚好きに変わっていった。
周りは林檎園だったから美味いハネ林檎もたらふく食べていたし、木の実やキノコや山菜やが家の周りの森で日々の犬の散歩の際に採れたので、食生活の点では我がジンセイの黄金期に間違いなかった。

上京してからというもの、スーパーで買う野菜はハッキリ言って不味くて仕方無いし、仕事が休みの日に買ってみても平日は料理等出来ず結局は冷蔵庫の肥やしにしてしまうから、ついには買わなくなってしまった。
大好物のトマトは結局は切るだけで食べれる手軽さがあるし、それだけを齧りついても美味い。(まあ本音を言えば、スーパーに並ぶトマトは本来のトマトの味じゃないけれど。)
けれど、パセリやセロリはそうはいかない。そうはいくじゃん!って人もなかには居るのかも知れないけれど、ワタシはそうはいかない人で。それだけを食べる気にはなれない。ごまかして『緑の野菜』ジュースなんか飲んでいる始末だ。
だからセロリ、それもスープセロリなんて久し振りだった。
けれど、Mさんがくれたブツは、一度しなびて水に挿して復活したモノでさえ大味で、ハッキリ言ってしまえば決して美味しくはなかった。
贅沢を言っているのではない。不味かったのだから仕方無い。
「ああ、これじゃあ "草" だな...」と舌が思った。
けれどMさんには「美味しかったです。」と言っておいた。ワタシは優しい嘘つきな日本人だ。
Mさんは珍しく言葉少なに「そうか。」とつぶやいて、ほんの少し口元に笑みを浮かべていた気がする。下駄みたいな顔が一瞬だけ、優しく崩れた気がした。

Mさんは東京の下町育ちで、ちゃきちゃきの江戸っ子。
実家は3代続いた大工だったが、何かの事情で自分の代で潰してしまったらしい。人の紹介でこの会社に入って7-8年になるらしい。
兄弟が何人か居るが疎遠らしい。けれど、育った土地のお祭りや浅草の三社祭りには、仕事そっちのけで参加しに行ってしまう。"消えてしまう" と言った方が正しいかも知れない。
会社はMさんのこの行動を黙認して7-8年になるらしい(笑)。ワタシは今年初めて或る朝そのMさんの晴れ姿を目の当たりにし、突然の事だったので驚いてしまった。
Mさんが法被装束に鉢巻き姿で立ち去った後、ワタシより10歳以上年下の会社の先輩に尋ねた。
「Mさんあんな恰好して、一体何処行ったんですか?」
「ああ、今日から浅草のお祭りだからね。仕方無いよ。」
「仕方無いって...じゃあMさんお休みですか?」
「そう。居たって仕事が手につかないからね。駄目だよありゃ、もう。放っておかないと。お祭りに関してだけは誰が言ったって駄目さ。」
「Mさん、何か役についているとか、担いだり何かやるんですか?」
「さあね、アレもう勝手に参加している名物爺さんらしいよ。でももう相当に膝も腰も悪いからね。団扇でもあおいで周りで騒いでるんじゃないかな?」
「........。」
下駄みたいな顔のMさんが、おでこに汗を一杯かきながら、例のダミ声をあげながら、いい顔して大団扇をあおいでいる絵が浮かんだ。

奥さんとの家は神奈川県にあるそうだ。
なのに、奥さんとはもう長いこと別居していて、ついこの間まで会社の工場の倉庫の一角に3畳程のプレハブの掘っ建て小屋を作り、そこで暮らしていた。
そのプレハブの中は凄い状態だった。"まるで片付けられない症候群" の王室だった。
今年3月、会社が倉庫を持ち主に返却せねばならず、その際にMさんも居住区を追い出され、今は新座市で生まれて初めて民間アパートを借りて一人暮らししている。
会社の中で一人暮らしはワタシとMさんだけ。他のヒトは皆、所帯があったり、いい歳して実家に暮らしている。
なんでもMさん曰く、奥さんは異常に病的な潔癖症で、職人のMさんの帰宅後の作業着の汚れや、汗臭い体臭やを極端に嫌い、洗濯もしてくれなきゃ、服を脱いで裸にならなきゃ家にも居れてくれなかったそうだ。
ワタシはその話を聴いた時に、一瞬にして少し目頭が熱くなってしまった。
ワタシも以前1度だけ経験した結婚生活の中で、Mさん夫婦とは程度の差こそあれ似た経験もそこそこあったからだ。
その辺りは以前当ブログ『42. ネチョ&スーのブルース』に、ちゃかして書いたことがある。


籍をいれるかどうか別として、共に暮らすか否かは大きく違うだろう。
同棲と結婚も大きく違う。
"永遠" なんてものは外の世界にも内の世界にも無い。
そして日々の生活の繰り返しの “慣れ“ は、得てして我が儘や間違った依存を産んでしまう。
中学生の頃吉田拓郎のエッセイを読んで、当時は「そんなものかなあ...?」と実感なく思ったものだ。
ところが、今となっては大いなる実感を持って「そんなもんだな。」と思う。
だからこそ意識をもって自分を客観出来ない "熱っぽさ" だけじゃ、上手くいかないのだね...
若さとは自信の無さでもあり、過ぎてしまえば取り戻せないぎらついた刃と滴る果実だ。
でもそれは、世界の広さと己の小ささを知らない傲慢さの上に成り立っている。
そのことに気付かないのが、若さでもある。
自分が当然愛されるべき王子様やお姫様であると信じて止まない間は、"無償の愛" など宗教の戯言に聞こえるだろう。
けれどどこか青臭い、シンプルな"熱っぽさ" もなきゃ、その先に踏み込めないのも事実。
少しは "盲目さ" もなければ、次のステップには進めないってこともある。勢いっていうか...
けれど、自ら見えないフリをするのは、得てして後々自分に良く無い反動となって返ってくる。自分は騙せない。
見えたり、聴こえたら、もう消せないし、総ては後戻りは出来ない。時計の針は逆に動いちゃくれない。
こうして嫌でも歳を重ねて、少しづつ経験が増えて、するとどうしたことか...
困ったことに、知れば知る程、臆病になってゆく。
歩く程に何もかもがワカラナクなってゆくのは、一体どうしたらいいんでしょうかね〜・・・・・


(話戻して)Mさん。
どうして、どんな成り行きであんな御歳で身体もあちこち悪いのに、そう遠く無い場所で別居してしまったのかー本当の処なんて判らない。
野暮な質問なんてワタシゃしないから。
けれど何となくだけど、分かる様な気もしてしまう。
たとえワタシの老いた両親に程近い年齢のMさん夫婦であれ、所詮は男と女の問題と云えばそうなのだ。
犬も食わねども、暗くて深い河もあるもの。
どちらが先に最後の扉を開けて踏み出してしまったのかは知らない。
けれど、もう今となってはそんなことは大切なことじゃないだろう。
夫々が日々の暮らしを歩いているのだから。

いずれにせよ、誰ものジンセイは前に向かって続いている。
病を抱えようが、何も無い様な空虚感を抱えようが、だ。
成り上がって得た名誉、築いた財産を抱えようが、そのことは同じだろう。
何もかもに "永遠" なんて世界は無いし、個人が努力しなくても時間の川は流れてゆく一方だ。

       *

Mさんの話はいずれ書こうと思っていた。
ワタシより年下ばかりの会社にあって、70近い?Mさんは気が休まる先輩だ。
でも困ったことに、怒り出すと手が付けられないし、割と口ばかりで手を動かさないタイプだし。いつも酒臭いし。
けれど、大工仕事関係の知識と経験は豊富だ。ただ、説明というか他人に教えるのが下手なんだ。
職人といえどもコレは大切な必須項目なんだと思う。伝達能力。最低の営業感覚。
特に今の時代は大工が威張っていられる余裕等、微塵も無いのが実状だ。ワタシ達は将棋の歩駒に過ぎない。
Mさんは都会(会社は新座市だけど)では珍しい、昔懐かしき大工の棟梁タイプの最後の生き残りだと思う。
ワタシが山梨に居た際は、Mさんみたいな職人が一杯居た。

ワタシは子供の頃から三味線弾きの婆ちゃんが1番好きだった。厳しくて優しかったからね。
早くに実家を出てから何処に住んで何処を彷徨っても、年配のトモダチに出逢って来た。
お年寄りはやっぱり深みがある。頑固だったり、意固地で拗ねていたりする人も居るが、皆孤独で寂しがり屋だ。
口では何と言おうが、態度がええかっこしいであろうと、皆淋しく、哀しい人だ。
それは、"生きて来た哀しみ" だと思う。
今はまだとりあえず生かして貰っているが、やがて必ずや訪れる最後の時を否が応でも意識して今を暮らしている。
そんな淋しさを背中に背負っている。

"生きる" ことはイコール"死に向かって" 歩くことだ。
どうやって、どこで死ぬか、ジンセイは思い通りには進まない。
歓びと悲しみでは圧倒的に悲しみの方が多いのが人生だと、純粋な者程 "生きにくさ" と共に悟るだろう。
だけれども、今を生きている老人は皆諦めている訳じゃない。諦めてはいないから、生にしがみついている。自ら生きている。
盆栽に、花に、猫に、酒に、その中に何をみながら長く生きて来た人は今をやり過ごしているのか...
ワタシが出逢って来たジンセイの先輩の方々の話、その名言&迷言も又いつか書いてみたい。
いずれ程なくワタシ達も老人の域に入る。
ぼおっ〜としていたらアッと云う間だ。


      *


Mさん、俺はこれから先どうしたらいいか、どう変えてゆけば良いかワカラナイんだ。
スピードばかり求められる今の仕事は俺には合わないよ。合わないけれど、次の手はどうしたらいいかワカラナイんだ。
ワカラナイけれど、ワカラナイなりにこう思ったりするんだ。
モノやカタチ在る何かにしがみついたり、現状維持だけの保守に囚われたくは無いよ。
健康だって現状維持どころか、肉体は確実に老化してゆくのが自然の摂理だし。
健康や、経済や、容姿や何もかも、今更他人や風潮を気にして振り回されるのはバカバカしいよ。
腰のヘルニアも、中途半端で中断している創作活動も、別れた娘への思いも、寝食共に静かに過ごせる嫁さん欲しさも、
みんな、み〜んな抱えていくしかないんだよね。
一見淡々と、して内側熱く、熾き火絶やさずゆくしか....



これ以上自分を嫌いにはなれないな...なりたくはない。
自己否定ばかりして生きるのは苦しいことだよ。
もう一度、誰かに肯定されたい。
誰かに優しくしてみたい。
誰かをじっと見つめたり触れることが、罪ではない関係を築きたい。
頭でっかちじゃない絆を育んでみたい。
こんなのが夢じゃ小さいですか?小さいオトコですかね?

いつか心静かに、静かな場所で暮らせるだろうか...

少なくとも、闇雲に突っ立っていても、電車は来ないやね。舟も来ない。
ただ待っている、手をこまねいているだけじゃ。
駅が見つからなくても、まだまだ線路を独りで歩かなくちゃ、電車は来ないみたいだね。
川べりに佇んでいても、流れを変える大きな石を置くとか、反対側まで行けなくても中州まで泳ぐとか...
もっと何かを捨てて、身軽になって飛び込まなくちゃ、舟にも辿り着かないみたいだ。

否、来た電車や舟に乗るのでは駄目なんだろうな。
そうだ。皆、自分で自分のを作るんだったな....


       *


Mさんは言っていた。
「Kさんが全部食べてくれて、婆さんもきっと喜ぶよ。」

いやあ、ちょっとMさん...それ違うんじゃないでしょうかぁ〜
野菜嫌いのMさんが心配で、奥さんは割と食べ易く栄養の有る草を送って来たんですよ!
今度送って来たら、しなびてしおれちゃう前に
ちょっと齧るだけじゃなく、鼻つまんででも(笑)食べて下さい。
ワタシはいつか、おがくずや泥や汗を嫌がらない、いい暮らしの育ちではない相手が見つかったら
その時は、セロリやパセリはスーパーで買わずに.....

だからMさん、もうくれなくていいんですからネ!
愛はしなびる前に、御自分で味わって食べるべきです。

「バカヤロウ!おめえ...」が聞こえてきそうですが...




ん〜、でももうワタシ、"草" は要りませんから〜




      (只今の脳内ミュージック/CASSIE FRANKLIN "Lady Margret" )






プレイス/自作イラスト一部.jpg

56. 奥へ /みんな途中#10 [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]

 以前暮らした山村では、夜になるとキツネや鹿やイノシシが現れた。アナグマやイタチも時々現れた。早朝の林ではリスや野ウサギに会った。日中もキジの親子やタヌキが現れ、フクロウ等の猛禽類から渡り鳥や小さな野鳥まで、出逢ったイキモノの種は数多い。

 家の食料の野菜の殆どを畑で育てていたので、自分達の生命線を守る意味で、獣対策は “静かな闘い” だった。色々と難儀した。被害対策っていうのか...そのイタチごっこを思い出すと、半分は獣の為に育てている様なものだった。

併し、現在となって思い出してみると....野生のイキモノは実に美しかった。季節毎に変わる毛波の色、姿全体のフォルム、その動作他総ては、一言で云うなれば唯ただ、美しく...それは喩え様の無いオドロキでもあった。高い金を払って動物園や外国に行かなくても、都心から車や電車で数時間の場所に、ワタシ達よりずっと美しく勇ましい野生のイキモノが今日も生きている。母国のイキモノが必死に生きている。唯、生きている

 

 そんな中で、山猿だけは好きになれなかった。はぐれ猿1匹と遭う分は互いの様子を窺いながらのコミュニケーションも楽しいが、何十匹という群れとの遭遇は思い出すだけで身の毛がよだつ。渓流釣りで突然下流から沢沿いに走って来たカモシカに遭遇した時や、ガサガサと揺れる熊笹の斜面の中から本当にツキノワグマの黒い身体が現れた時も、確かに身の毛はよだったけれど、その際は知識があったので割と冷静な自分も居た。或る程度の距離も有ったことで、腰を抜かしそうになりながらも其の自分を観ている自分も居たのだ。だが、猿に関しては何の予備知識も無かった上、度々のオソロシイ体験から、ワタシはすっかりあの “赤い顔” が苦手になってしまった。これは今後、もし申年の方がワタシに優しくしてくれた処で、そう簡単に治る生易しいトラウマではないのだ。興奮した野生の猿の集団に囲まれ威嚇された恐怖は、味わったものにしか解らない。

 

 一回目の体験は1993年頃だったろうか...ワタシはその地で糧を得る為に木造大工を勤めていたのだが、H町の深い森の中で別荘建築中に気がつけば猿の大集団に囲まれ、威嚇され続け、かなりの恐怖を覚えた。夕刻の定時が過ぎ、辺りが暗くなるまで、20数歳上の親方と二人で現場に(釘付けというより、缶詰めというより、)言うなれば、軟禁状態だった。その土地に何代も暮らして来た親方が「彼等のこの状態はちょっとヤバい。下手に動かない方が良い。」と表情固く言うので、ワタシもつられて表情固く、きっと苦笑いを越えて「参ったな...」とかなり引きつった顔をしていたと思う。「親方...どうするんですか?!」「どうもこうもしねえ。こっちが教えて貰いてえくらいだ。」え?ええっ〜!.....まさしくそんな感じだった。

 その後の或る夏の日、2回目の体験だ。同県M村にて、地図にも記されていない渓の滝壺辺りに当時の家族と涼みに出かけた際、ワタシが忘れ物を取りに少し離れた所に停めた車まで戻ったほんの15分程の間に、元妻と娘が猿の集団に囲まれ威嚇され大変に怖い思いをした。(当時は携帯電話等持たない生活をしていたので異常事態を知る由も無く)その際はワタシが戻り次第その異変に気付き、とっさに手頃な倒木を手にブンブンと振り回し、大声で吠えて暴れて見せた(魅せた?)ところ、事無きを得たのだった。それはNHKの動物番組等を好んで観ていたおかげか、記憶にあったゴリラの生態を無意識に真似た気がする。元妻は、自分達が少し動くだけで赤い顔の猿が歯を剥き出しにして威嚇して来るので、一時的に声も出なくなってしまったし、娘は初め「あ、お猿さんだ!」とは思ったものの、母親が血相変えてうろたえているのを見て、「変だな。」と思ったらしい。父親(ワタシ)が自分達の所へ近づけないのではないだろうかーと思ったらしい。帰路の車中、母親は恐怖から開放されたのか、いかにオソロシカッタかを雄弁に語りながら涙を流していたが、小さな娘はまるで泣かず、唇をきりっと閉じて真剣な顔をしていた。ワタシはと云えば「やっぱり猿はオソロシイな...」と思いながら、動悸の治まらぬ心臓を黙ってなだめていた。

 他にも飼っていた中型犬タムが襲われそうになったこともある。そんな経験をワタシは計4回程しているので、野生の猿はどうも苦手なのだ。ワタシ達に一番近い哺乳類、赤い顔、モンキーが怖い...

 

 併し考えてみれば、H町もM村も大自然ど真ん中とは言えずとも、標高3000M級の南アルプスの裾野にあり、元々は彼等の場所だ。そして、文明...否、そこまで大きく語らずとも、合理化や利便性の向上の名の元にないがしろにされてきた自給性や、イキモノ本来の食べる・寝る・子孫を増やす等の極めてアタリマエの営みの変化の末、かつては山と密接に暮らして来たヒトビトの暮らしも大きく急激に変わってしまった。跡継ぎの全く居ない森は荒れる。ひとたびヒトが手を加え管理しようとした自然は、ヒトが手をかけなくなれば、元通りに戻る訳ではない。増して一瞬で壊したものが、一瞬で癒えることはないのだ。ヒトの心と似た様なものだ。見えない所のバランスが崩れたならば、誘因はおろか原因の根本を探り、根こそぎ変えたり元に戻したり等と、そうトントンとは上手くはいかないのだ。ソコには合理主義も利便主義も効かない。どうにか折り合いをつけて、抱いてゆくしかないのだ。

 かつて生活と密着していた猟をする者は激減し、山に入るとしたら渓流魚を追う釣り人か、春秋の山菜採りか、はたまた自殺者か、くらいなもので。(これは冗談ではない。ワタシは幼少期に暮らした東京の端の山と、ここに書いている地方の山で、合計4人の自殺体を見てきた。観光地図にも載らず、国土地理院の地図なら真っ白な場所で、見も知らないヒトの自死した姿を視てきた。喩え名前も知らないヒトであれ、その遭遇も又、自分の人生に強い影響を与えたと思う。そこから考える事もあるので、いずれ書きたいと思っている。)ハイカーや登山者含め、観光客は決まったルートしか通らない “短期旅人” だ。何かしらのゴミは残しても、森に於いての輪廻に参加はしていない。旅人だから見えるものはあるだろうが、逆に旅人には見えないものだらけとも言えよう。そして、生き残った数少ない猟師もどき達は県からの委託指令で、作物やヒトが被害に遭った地区のみを重点的に銃をぶっぱなすだけで、山の奥深い所での異常事態を日々の暮らしの中、ひしひしと肌で感じる者は、広い目でみても僅かだろう。


 何かの折にワタシがこの様な話を地元の方に話出せば、そんな事を言ったって「仕方ねえズら」「時の流れっちゅう事ズら」等と台詞を仰るばかり、話題を変えることに努力を惜しまぬ御方ばかりだった。明確な答え等出せる筈も無いと分かっている事を、それでも唯事実として淡々と情報交換する事も時には大切だと思ったりする。まして大人がすぐ側に居る子供にしてやれることの一つは、命令調の理屈ではなく、唯暮らしていて気付いた事のアレコレだとも思う。逆に子供の気付きから教わる事も実に多いのだから。そうして視点は視点を呼ぶし、絡み合う。パートナーとも同じ筈だ。なのに大人同士は直ぐに好みで判断する。好きだの嫌いだの苦手だの...そんなレベルは大した問題じゃないんだ。黙ってこなしていれば、そんな域は越せる。自分にとって本当に大切なことを見つけたら、気が付けばそんな“好き嫌い”の域は越しているものだ。何もかもエキスにしている筈だ。良い意味でどん欲になれる筈だ。

 「それは私には関係ない」ーそんな事は無いのだ。全てが関係している。或る意味では、ありとあらゆる事象がアナタにもワタシにも関係している。逆にアナタもワタシも全てに関係している。だからここは“清き一票” をダメ元で「投票に行こう!」等という話ではなく、たった1人の己の今現在の存在の全てが、山、森、川、海に繋がり、生きとし生けるもの全てに繋がって影響し合っているんだ〜と日々の暮らしの中で時に意識する事が、ニンゲンだからこそ必要なのでは?と思うのだ。ヒトは孤独を感じて内省するイキモノだが、決して自分1人では存在していない。アナタやワタシのコレ迄も、実に微妙なバランスの上に成り立って来た筈だ。鬱に陥ると、それが意識されなくなり、まるで真っ暗な世の中に自分1人でポツンと居る様な感覚に覆われてしまう。苦し過ぎて線を越えてしまえば、死んでしまったりするのだろう。


 乱暴な物言いをすれば...ワタシは極端な都会の生活と田舎の生活と、両方を十数年づつおよそ同じ期間だけ体験して来た。計画してではなく、たまたま流れからそうなった。今再び、都会に住んでいると “ヒトの身体と本来の自然の微妙なバランスやサイクル“ というものを、日々リアルには感じられないことが、改めてよく解る。街のヒトが言う環境問題は、とかく卓上理論であり、購買意欲をかき立てる為の奇麗事羅列の雑誌の見出しよろしく、そのレンズのズーミングは偏っている気がする。(併しかく言うワタシとて、何処から何処へ流れようが、行動も思考もたかが知れているから、永遠に偏っているだろうけれど...だからこそ)唯、すぐ側に行くとか、暮らしてみるとか、食べるとか、話すとか、文字や絵にしてみるとか、色んなアタリマエの事がお互いに必要だと思うのだ。アタリマエの事をアタリマエと思わずに、立ち止まってみたり、ズーミングを変えてみるとか、色んな窓から覗いてみるとか。“お互い” とは、対ヒトでも対森でも海でも同じことだ。短期旅人では、都合の良い解釈しか得られない事が多いと思う。併しそれなりの小旅の充実感も知っている。第一、旅に呼ばれる心情は止められないものだ。恋の様なものだ。でも“深く刺したい・刺されたい”なら、アタリマエの事を実践しなくてはリアルは掴めないだろう。上手く言えないがワタシは改めてそう思うのだ。

 太古のヒトはそんなアタリマエの生き方をしていた筈だ。多くの人がアタリマエの事をもっと大切にしたら、よりリアルを求めたら、きっと現代人以外の全てのイキモノがみんな喜ぶだろう。”スローライフ” とか “ロハス” とか、何故に看板が必要なのか?企業戦略に乗せられてる場合じゃないよ。ちょっとソコの奥さん&お嬢さん、関連商品の消費じゃないぜ。なんで先ず買おうとするんかなあ...それにしてもみんな好きだよね買い物!呆れちゃうよ...。看板でもいい、もし多少なり気になるなら、先ずは自分の内側と会話するんだよ。黙って向き合うんだよ。過去と向き合うんだよ。「誰も教えてくれなかった。」じゃない、アナタが逃げているだけの事だよ。ソレ無くしてアカルイミライは無いよ。そう思うよ。(こうゆう事言ってると、いずれ再び今度は独りで仙人の様に山に籠るんだろうな〜)

 胸の内は夫々多様なものを抱えていて当たり前であり、“好き嫌い” も胸中のどこかで感じていれば良い事。ワタシも音楽や映画や服の好みが顕著だ。例えばハリウッド映画は好まない。例えばJポップは聴かない。ワンピースに弱い。蒼井優が好きだ。夏なら小豆アイスだ。ところてんだ。生クリームプレイがしてみたい。(あ、スイマセン。調子に乗り過ぎました。一寸反省。一寸だけ。)あと、絶対にポテトサラダにリンゴやミカンを入れないでくれ!別々に食いたい...だが、こんな戯言ではなく、身の回りのあらゆる事象に対して ”好き嫌い” を判断基準として、いつも口に出して出していると、そのうち自分が自分の言葉で呪文にかかると思う。そして時には大切なものまで見失ってしまうのではないだろうか? いつまでも物事を “好き嫌い” で判断している主は、ザ・自信過剰に過ぎないと思う。そっと教えてあげても「だって嫌いなものは嫌いなんだもん!」ときたら俺は呆れて引いてゆく構図だ。好き嫌いの触覚だけを堂々と掲げる者は “裸の王様” だ。王制には王制の良さもあれど、少なくともこの国は王制ではない。恋人関係も夫婦関係も王制なんておかしいだろ?おかしいよね?(はたまた脱線しまくりだ...)


 (話を過去に戻そうー)悲しい事に、そんな “唯、話す” 事ーそれが出来る方は、得てして他所からの移住者の内の1匹狼的な方ばかりだった。見かけが変な奴、変わり者と呼ばれたりする奴、一見で何屋だか判らない奴ばかりだった。その内、森の奥深くに入ってゆくヒトは極々一部だった。行かない理由を挙げれば、行きたいけれどヘビが、熊が、イノシシが、鹿が怖い。ダニが、ヒルが嫌だ。蚊やブユに刺される。薄暗くて何となく怖い。忙しい。行きたいけど、そんな「時間が無いから行けない」etc...  多くの方は、自分の住居敷地内に居ながらにして感じる美味しい空気や美味しい水、多くの緑や広く青い空を求める。半自給自足的な ”本来あるべき姿とは?” みたいな思考で、”田舎暮らし” に憧れる。良い頭で描いて飛び込む。それでも、少なからず過去のしがらみを断ち切って実際に移住に踏み込んだ人達は、或る意味では勇者だ。憧れるだけなら誰でも出来るのだから、何にしても実際にやった者は勇者だ。実行者は頑張り屋が多い。だから、いざ笑えば皆さん笑顔がいい。シワがいい感じだ。味のある顔をしている。男も女も味のある顔は素敵だ。その後の生活が過去に思い描いていた理想と大きくかけ離れていたり、夫々の悩みは必ず抱えていたとしても、自らの意志で思い切って人生の舵を大きく切った者には “或る潔さ” が滲み出ている。或る意味で “捨て身の孤独” の匂いがする。それって悪いもんじゃない。むしろイキモノっぽくてイイ。顔や手指には必ずイキザマが出てしまう。その造りや皺の話じゃない。立ちのぼるオーラの様なものだ。誰からもそのヒトなりのオーラが出ている。オーラが魅かれ合い仲が深まったりするのだと思う。気を付けていても無駄だ。それは長い積み重ねが滲み出てしまうものだから、化粧や仮面ではコントロール出来ないのだ。


 自分達の飲み水の水源を実際に見てみたいとか、歴史に消えてしまった(直ぐ近くについこの間迄ヒトが息づいていた)廃村を訪ねてみたいとか、道無き森を行ける所まで探索してみたいとか、動機はどうあれ実際に行動してから考えるーそんな者は “変わり者” と見なされるか ”暇人” と呼ばれるかどちらかであった。世間は狭く、田舎もソレは同じ、否、田舎の方が他人の厳しい目がそこかしこに潜んでいる。或る意味田舎とは、つげ義春の『ねじ式』の目玉の看板だらけの絵みたいなものだ。自分から知らせないのに、ワタシの行動なんて直ぐに知れ渡ってしまうのだった。(実に怖いよ、田舎の他人を観察する目は。例えば...車で30分のホームセンターで買い物後に、他家の奥様と仲良く話そうものなら、それはワタシ自身が忘れてしまう位の事なのに、数日後には何故か元妻から「〜さんと随分仲良く話してたんだって?」とニヤニヤ尋ねられて、逆に妙にドギマギしてしまうーなんてのが田舎のオソロシイところの一つなのだ。例えば、最高の天候条件の或る日、仕事を早引けして自宅とは逆方向の溪で釣りをした後、夕闇迫る県道を時速60キロ位で車を走らせていると、数日後には元妻から「この間、変な時間に〜の辺りを走っていたんだって?」と尋ねられ、「え、ソレ話したじゃん。〜川に釣りに行って来たんだよ。釣って来た魚、食ったじゃん!」「そうだったっけ?」等という始末。何処に居ても悪い事は出来ない。嗚呼、話が変わってしまった...苦笑。)そんな時間の使い方は、「あいつは変」で、「暇だから〜」と見なされる。みたいだ。否、見なされた。(苦笑...)でも別にいいのだ。そこら辺の他人にどう思われ様が知ったこっちゃないセイシン” で行かなきゃ、自分のジンセイは歩めない49. 黒いサングラスはもう要らない(2/2)』でも記したけれど、誰でも理解者と思い込めるヒトが1人でも居るならば、どうにか生きてゆける筈だ。問題はお互いの折り合いだ。メリとハリだ。

 

 そう云えば...ヒトの話を聞いていて、いつだってこっそり溜め息が出てしまうのは「時間が無いから出来ない」という言い訳。其処かしこで耳にする。ワタシも言ってしまう時がある。で、いつも思う。時間は作るもの” じゃないだろうか? そいつは ”出来ない” のではなく ”やらない” のだ。自分のジンセイ時間の近いところの管理は、他でもなく自分がしている筈だ。会社に指示されようが、家族に合わせようが、"自分が決めてそうしている” のだから。“したくてしている” のだ。“やらない” のも自分だ。その道を選んだのは自分。なのに現実には、ここを間違える甘ったれが実に多い気がする。ここを間違えるから、自分以外に責任転嫁したり、争いの元に成る。今日も世界の何処か、お隣りご近所で、大小の差はあれ戦争が勃発している。原因の一つはココに在ると思う

 こっそりと誰か大切なヒトに、時には「仕方無くてさ〜」なんて言い訳をしたっていいだろう、許してもらえるならば。そんな苦しい胸を少し告げ合い、それで深まる共感・培う関係もあるだろう。けれど "総て己が選んだ道である” その事を自分自身が忘れたらアウトだろう。 ジンセイは一回こっきりなんだ。光陰矢の如し。歳と共に時間の経過はどんどん早くなるんだ。ワタシだって思い切り甘えたい。損得抜き、虚栄も羞恥も脱ぎ捨てて、どうせなら後先考えず甘えてみたい。そんな温かい胸があるならば。でも甘えるのは布団の中だけがイイ。他人のせいにする責任転嫁の甘えは、ステキな何をも産まない。冷静さが有ってこそ、冷静さを潔く脱ぎ捨てられる時も在るのだと思う。でもでもでも、やっぱり時には無防備な迄の ”不冷静さ”(凄いねコノ言葉。笑!)もなくちゃ....そう、生きている甲斐も無いしね。ケースbyケース。メリとハリがいい

 

 

 犬のタムや娘と道無き森を無計画に歩き回る時、思わず強い何かの力(気)を感じてしまう様な巨樹や、ひっそりと可憐に咲いた草花に出逢う歓びは大きかった。観光地図に無いお気に入りの場所を何カ所か持つ事は、生きてゆく力になる。ヒトやヒトが作ったモノの見当たらない風景の中で、思いっきり底の方から呼吸が出来た時、身体中の細胞が声をあげているのを感じる時がある。其処には、販売機も椅子もソファもテーブルも、まして遊具等何一つ存在しない。だが、娘は行きたがったし、いつだって「そろそろ帰ろうか?」と呼びかけても、粘りに粘るのだった。保育園での目つきとは別人の娘がソコに居た。まあ本人は『もののけ姫』を観てからは、ヤックルに跨がったアシタカ(男の子だね...)に成り切っていたーだけのことだが....(泣笑!)凄かったんだから、あの映画の影響は。長い間、娘はダンボールの筒で作った鞘を背負って木の枝を振り回し、ワタシが竹と凧糸で作った弓を肩から下げて、大人には見えないヤックルを連れ歩き....それは凄かったんだな、長いこと....。完全に「負けた」と思ったよ!

 きっと、子供はテレビが好きで仕方無いーのではない。子供がゲーム無しでは生きれないーのではない。その様に大人(親)が仕立て上げるのだ。 昔、知り合いに「私って何も無い所って駄目なのよね。」という女性が居た。「キミの言う"何も”って何?」とは尋ねなかったが、このヒトには絶対に近づけないと思った。「きどってんじゃんねえよっ。」と思った。それ以上仲良くしている暇は無いと思った。消費に翻弄され、いつも化粧仮面を被っているヒトは、ワタシのエネルギーを吸い取っても、パワーをくれる事は無い。ギブ&テイクが成り立たない。男女とも八方美人の調子良さにも我慢ならない。信用成らない。みんな、ワタシには嘘をつかないでくれ。嘘なら嘘で、死ぬまで騙して欲しい。ワタシも又、不器用なのだ。否、ワタシこそ、もう極端に頑なな部分と柔軟な部分と、異種混合競技が常に胸中で開催されている。それでいいと思っている。きっと壁を作って、何かを守ろうとしているのかも知れない。そうしないと、いざの時に開けなくなる気がするのだ。ここもメリとハリだ。

 

 (話を戻そう。)一方で、荒廃してゆくばかりの渓流や森の姿に、何とも言えない気持ちを常に抱えていた。ワタシがその地に暮らし始めた1990年代から、たった16年の間に、悲しいばかりの凄まじい変貌は本当に数えきれない。地元のヒトは「仕方ねえズら」「仕方あるめえし」と溜め息まじりに呟く他は、子供達がみな街へ出てしまった静かな家に残り、狭く痩せた土地を耕しながら、ゴルフ場やレンズ工場を誘致し、ついには共有財産であった7町歩の山を東京都のS区に売っぱらった。ワタシが移住して数年後にその大規模工事は突然始まった。ワタシは組の仕事には早朝からかり出されるものの、氏子でもなかったし、ましてや共有財産は関係なかったから、何一つ知らされていなかった。何一つ知る由も無く、或る日突然、デカい音をたてて重機が動き出した。目の前で直ぐ近くの山がどんどん姿を変え、ついには消えてゆく様を見たのだ。ショックだった。実にショックだった。それは幼い頃、昭和40年代に育った土地で何年にも渡って見て来た事でもあった。「又かよ....」と思った。否が応でも受け入れるしかない目前の事実。ドウニモナラナイ事。これも又、或るリアル。

 そして、共有財産の山を売って得た札束は、各家に過去のなにがしかの都合に比例して分配された。或る家は茅葺き屋根をぶっ壊し何処にでも在る木造と漆喰のコロニアル屋根の家に建て替え、或る家は屋根だけコケの生えかけた瓦からピカピカの銅板に張り替え、或る家は立派なブロック塀を高く積み上げるのだった。仲良くしていた隣りの一人暮らしのお婆さんには幾ら入ったのだろうか...縁の下が腐って多少床が抜けて開け閉めが出来なくなった押し入れを、地元出身の大工に頼んで修理していた。数日の木工事だった。お婆さん、残りのお金は子供達や孫達に少しずつやるんだと。子供5人も居てみんな出て行っちゃって、小遣いでもチラツカせなきゃ尋ねても来ないんだと。

 

 S区は広大な土地に生えていた素晴らしき雑木の殆どを切り倒し、根を引っこ抜き、山を削り、平らにならし、赤松ばかりを薄っぺらい林の列で切り残し、他各所は造園デザイナーの描いた通りに(その土地に等生息していなかった)白樺やイチョウを植えた。何年かに渡っての工事中、その一部始終を目にする事は胃が痛くなる様な思いがした。大木がどわーんどわーんと倒される振動を感じる度に、言葉に成らない怒りに似た何かが育っていった。テレビや本で得る環境破壊等の情報より、或る生々しいリアルが其処に在ったのだ。併しそれは同時に、ワタシ自身が「オマエは何処から着て何処へ行くのだ?」と、まるでゴーギャンの大作の題名そのままを己に問うことでもあり、きっとその問いは、今もこの身体の中を止め処無く流れている。

 直接的な被害の話をしよう。禿げ山となった土地を日々こねくり回すブルドーザーの舞い上げる土埃が、700メートル程離れた我が家の家の中にまで飛んできて閉口した。洗濯物は茶色くなった。窓が開けておけない日々が続いた。我が家はその現場より南に位置し、そこから約2キロ先は標高差100メートルのフォッサマグナの断層、その間は地下水の道があまりに深く、別荘も建たない森だった。7町歩の山が消え、追いやられた動物達の殆どがこの森、つまりワタシの家の目の前から始まる森に逃げて来たのだと思う。この大工事が始まって以来、冒頭に書いた様な畑に於ける問題が急増したのだった。急増なんてものじゃなく、以前は問題なんか無かった。せいぜいカメムシやヨトウガの幼虫等の害虫対策に工夫が必要なくらいだった。以前は県道でキツネやタヌキが車に轢かれる等という事も無かった。そんなにトロい奴等じゃない。以前は夕方や早朝に、我が家のポストの前で巨大な鹿と鉢合わせ等という事は無かった。(鹿はデカいからやはり驚く。デカい鹿は角の分もあってもの凄く巨大に見える。こっちも固まる。急所なんか縮み上がっちゃう。向こうは背筋をピンと伸ばして固まる。鹿は必ず姿勢よく固まる。必ず睨めっこになる。揉め事にはならない。直、向こうが立ち去る。残されたこちらは、心臓の音を感じる。自分達の構図、その絵を思い返し、後で微笑んでしまう。畑を荒らされるのは堪らないが、鹿も又とても美しい。抜け落ちたツノを集めていた。)

 タマムシやミヤマクワガタをはじめ昆虫・小動物の或る種の激減や、山間大型動物との遭遇機会の増加をはじめ、記憶に残る事象や事件を書き上げたら先ず一冊の本には成るだろう。そしてこの問題はどんな視点から鑑みてもワタシの能力では一冊の本に等まとめられない。いつだって、長い長い輪廻のサイクルを、ニンゲン様が大きく急激に壊すのだ。ワタシ達など存在するずっと以前からの静かな営みを、ワタシ達がほんの一瞬でいとも簡単に壊すのだ。利益を産む為に、ボタンを押したり、スイッチを入れたりで、つまりは破壊するのだ。この事を理想論だけで短いスパンで語ったり、逆にあまりに俯瞰し達観し、或は極論をぶったところで意味は無いだろう。と云うより勇気も無いし、せいぜいがこんなものだ。脱線しながらの自己確認が関の山だ。無理したって自己嫌悪が進むだけだろう。難しい。なるべく出来る範囲で邪魔しない様に生きたいけれど、近くには居たいと思う。輪廻の。

 

 そう云えば...ワタシは天然記念物の上、この地域では絶滅宣言が出されたニホンカワウソに出逢った場所を娘以外には伝えなかった。周囲にイキモノ好きが何人か居たので、(ワタシの中の子供の部分が)話してしまいたくて仕方がなかったが、話さなかった。ニンゲンが一人でもその地に足を踏み入れないことの方が大切だと思ったからだ。独占欲も強いワタシだった。自分と娘と二人だけが、カワウソの住む溪を知っている、その 「“秘密” がいい」と思った。きっとワタシ以外にも、その溪でカワウソをたまたま目撃した者も居るかも知れない。だが、梅雨の晴れ間の早朝、未だ朝日が昇らぬ頃、川霧が立ち込める中、渓流魚を求めて車止めから何十分も無名の沢を登る者はそうは居ないだろう。居たとしても秘密を大切に生きれるヒトであって欲しい。いつだって秘密が育てるものは多い(大きい)のだ。

 太古の歴史スパンから鑑みれば、ニンゲン様が中途半端に手を入れたり、管理してきた森や林は、永遠に手をかけてやらねばならないだろう。富士山麓の樹海に足を踏み入れれば解る様に、多種多様に渦巻き、絡み合い、微妙なバランスの上に成り立つ混沌の森にしてみれば、誰の手も足もかけて欲しくはないだろう。ワタシは申し訳ない気持ちを抱え、とても都合よく自分だけは許してねみたいな傲慢さを抱え、或る程度のハプニングに備えた装備で山奥や溪に分け入った。きっとニンゲンのワタシ等、そこに居る総てのイキモノは歓迎してはいなかっただろう。

 けれどもその時間とは、野山で遊んで育った昭和の子供時代の延長でもあり、常日頃から肩なのか背中なのかピッタリ貼付く息苦しさを、気がつけば忘れて夢中になれる貴重な時間であった。だから時間を作っては、何度も足を運んだ。10数年の間に仕事以外で尋ねた場所の殆どは、名前等無い、地図では白っぽい場所だ。“何も無くて全てが在る”ーそんな場所ばかりだった。

 

 ワタシは(格好良く申せば)いかにお金をかけないでセイカツをするかを実践する為に移住した様な者だったので、どんなものでもなるべく作ったり、修理したり、代用したり、応急処置の連続でごまかしたり(ごまかしが多かったかな?)そんな姿勢で長らく生きていた。勿論、富良野麓郷の黒板五郎の影響は大きかった。が、元々昭和40年代の東京の端っこの田舎に育った自分は、実家が貧乏だったのが幸いして、そんな 創意工夫ごちょごちょ作業しながら暮らす事が、極普通の事であったのだ。『北の国から』は、ロックバンドに明け暮れ “乱暴なセイシンで乱暴に暮らしていた” ワタシに、新鮮な風をくれた訳ではなかったのだ。単に思い出させたきっかけに過ぎなかった。

 そして今は何故だか東京に暮らしている。いつまでも居るつもりは無いが、さしたる予定も無い。オソロシキ無計画。大敗から退廃の道か?生産すりゃいいってもんじゃない事は解っている。生きる事自体の罪ばかり見つめていても始まらない。併しこの旅はとっくの昔に始まっていて、気付けば半分以上こなしてしまった。やはりワタシは少し生産もしてゆきたい。育てたい。何を?......それは愛? 何言ってんだか....歌謡曲じゃあるめえし。

 

 

 例えば絵を描いたり、文を書いたり、歌を歌ったり、舞台で演技したり、釣りをして獲物を捕ったり、家をセルフビルドしたり。又は自然や環境について、己の排泄や食事について違った角度で考えたり。そんな行為は決して素晴らしいことでも大それたことでもなく、本来は御飯を食べたり、身体を休める為に寝たり、本能として異性と抱き合ってまさぐり合ったり、或る見方をすればそんな行為と何ら変わりはない様に思ったりする。何の為でもない、唯そうやって、そいつが生きているだけ、人生時間の或る過ごし方のだ。

 総ては唯、生きて、いずれ死ぬその時までの時間を過ごしている。お金持ちも貧乏人も、どんな肌の色のヒトも、男も女も中間のどこかのヒトも、何処の国のどんな家庭で産まれどんな道を歩こうが、イキモノは皆生まれた時点で “死への旅” へまっしぐらだ。道がどんなに曲りくねっていようが、己のゴールはその身体が消えて無くなるその時であり、時間軸にのっとって進んでいるだけだ。後戻りや、もしも〜は絶対に無い。

 

 ワタシ個人が森や海について考えたり、何かしたところで...等といじけた考え方は持っていないし、かといって一切あらゆる集団や運動に加担するつもりはなく。もし課題を掲げるとしたら...素直に己を開放して向かってくれるヒトには、素直に開放して向かうだけだ。あえて掲げる事でもないのに課すのは何故かと問えば、虚栄心や羞恥心にまみれた過去の自分が小さ過ぎて、結局は損をしてきた気がするからかも知れない。

 柔軟な開放。意味を求めず味わう。樹や魚や蝶や花がそうであるように、また、ワタシ達の胃腸や目や耳等それぞれの器官の働きが本来はそうであるように、それは本当は極々当たり前のことだと思う。そんな当たり前の事が一番難しいなんて...。 ワタシは死にそうになったり、死にたくなったりして、帰って来た気がしている。どうにか此処で立っている、弱くてだらし無い唯の中年。だけど何故か、どうしても好きな絵や、音楽や、ヒトが、確かに居る。けれどもそんな好きなものやヒトや “〜の為に生きる” なんてのは安っぽいドラマの台詞であって、ワタシは私の為にしか生きれない。ワタシがワタシの為に真っ直ぐ生きる事で応えた方が、きっといいんじゃないかと思うし、本来はそうとしか出来ない気もする。少なくとも努めるべきは其処だと思う。

 素直に開放。対応。向かい合う。唯生きる。ーそれはニンゲン以外が極普通に、当たり前にやっていることなのに、なんてワタシ達は不器用でひねくれているイキモノなんだろうか... 。「ココロという厄介なものが在るから仕方無いよ」ではなく...それが在るからこそ、諦めたくないよね。

相手が恋人でも、夫でも、妻でも、魚でも、鳥でも、樹でも、そして自分でも、少なくともその相手を大切だと “感じる” ならば出来る筈だ。皆、稼いだり、化粧したり、悩んだり、泣いたり、結構自分自身を大切にはしているのだから、それくらい出来る筈だ。己が今後もイキルならば、出来る筈だ。

 今回、以前暮らしていた地方の山村付近の話を、何故書き出したのだろう?何を確認したかったのだろう?きっとこれも又、唯この様にしてジンセイ時間を潰しているだけの事なんだろう。選んでそうしている訳だ。

 ワタシはこれから何処へ行くのだろう....

 

 

走って通り過ぎず、立ち止まってしばし佇めば、ほんのちょっと解る。解った様な気がする。併し、解っちゃいないんだろう。ノロくていい。もう別にいい。溜め息も出るが、又元気にもなる。結構強い。弱くて強い。

同種族、同業者、クラスメイト....井戸の大小あれ、横ばかり気にしても不幸に成るばかりなんだ。茶色や緑色や青色を気にしていたい。赤い色は嫌でもココに在るから。

キミもそのまま、群れず、独りで触れれば解る。孤独から逃げても始まらない。ヒトは永遠に孤独なイキモノなんだ。孤独をしっかり抱いてゆく時、初めて愛を知るのだろう。身体で、そう思う。

何にしても金を払って表面を撫でてたって、リアルを掴む前に時間ばかりがどんどん過ぎてく。

掴みたければ、虚栄なく、素直に。もっと素直に。素直に奥へ。

陽水の『夢の中へ』じゃない。『奥へ』だ。己の森の奥へ。

 

 

どうせアナタもワタシも、いずれ尽き、朽ち果てる身なんだ。

奥で消えたっていいじゃないか。

 

 

 

 

       (只今の脳内ミュージック/TOM WAITS "All The World Is Green"

ピーター・ドイグ「閉ざされた峡谷への旅館」(一部).jpg

54. 硝子のブイ /みんな途中#9 [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]

(今日ワタシはいつもと何か違った気合いが入っている。今、出走前の馬の様な気分で鼻息が荒い。話はいつも以上にアチコチに飛ぶだろう。そして無理矢理にはまとめない。自分なりの殻を又1つ破りたいのかも知れない。長編になると思う。多少なりサービス精神は忍ばせたいと思う。読んで下さる方、どうぞアナタの底の方で御付き合い下さい。)

ワタシには帰る場所がない。ヨスガなく〜ってやつだ。
だから正直、年末年始や夏のお盆の時期が苦手だ。どうしても内心は穏やかでなくなる。息を潜めてやりすごす。でもそれは土日のスーパーやデパートが昔から苦手なのと同じで、あくまでワタシ自身の内で折り合いをつけてしばし静かにしておれば通り過ぎる、土用波みたいなものだ。
別にいじけてる訳じゃない。辛くもない。悲しいとかじゃない。
唯時々、否、いつもかな...この身の何処かに虚ろな穴があいている感じがする。
それは、きっと誰もが抱える孤独感や、“本来ヒトは独りで生まれ独りで死んでゆく” みたいなテツガク的な感覚やサビシサではないと思う。もっと単純な空虚感で、常に “背水の陣” の息苦しさーみたいなものか...
「指を濡らして開けた障子の穴からの隙間風が、いつも聴こえる」みたいな感じか?「その外では冬の黒みがかった群青色の海が、ゴロタ浜の大小の岩にどわーんどわーんと砕け散っている」みたいな感じか?(ワケワカンナイか?自分自身でワカンナイ。唯、書いただけなんだ。)
ところで、指を濡らして障子に穴を開けたのは誰だ? ワタシ自身か? 
そうなのか?
.....

生きてると、好む好まず否が応でも引き戻され、本気で向きあわなければならない時が確実に訪れる。避けては通れない道に、遅かれ早かれ立たされる。そんな時に逃げていると、必ずしっぺ返しがやって来る
コレはコレ、ソレはソレと整理が出来てはいなくとも、時に取り出して確認したい事(時)もあったりする。
結構好きな河瀬直美監督の『沙羅双樹』の出来は映画としては今一つだと思うが、劇中で主人公の父親の台詞が印象的だった。
「人生にはな、忘れていい事と、忘れたらあかん事と、忘れなあかん事がある...そない思うねん」(たしか、こんな感じだったと思う。)
ワタシはこの台詞に「無理に忘れなくてもええ事もある」と付け足したい。表向き闘わずして、静かに抱えて生きる。言うなれば “諦め” を持った方が楽な事ってある、と思うからだ。

親と子の問題は、親も又その親の子であり、“あらゆる者皆だれかの子供である” からして、一概にどうこうと語るのは難しくもある。何か特別な勇気が要る。いい歳をして親子間の表面的な事象以外を語る事は、オトナとしてタブーであり、オトナゲナイというレッテルを貼られそうでもある。
でもワタシはオトナゲナイ。あなたもオトナゲナイ筈。大体、オトナって何?もし、青少年少女に真顔で尋ねられたらどう答えられる?ワタシは、幾らでも面白く答えられそうな気もするし、その全部が嘘の様な気もする。だから「ワカラナイな。一緒に考えてもいいけど、オジさんはもうその答えは要らないな〜」って答えるかな?先ずオジさんって言わなきゃあかんとこが哀しい。

産まれた時から両親の居ない友達が居た。或る日突然、誰かに引き取られて引っ越してしまった。
早くして親を失った者が友達に居る。他の奴よりも、静かな優しさという強さを持っている。ワタシは彼が大好きだ。
亡くなっての別れがあり、捨てられての別れも身近な者からの見聴きの範囲で知っている。長年交流のある10数歳上の彫刻家が安酒を呑みながら真顔で呟いた。「それでも私の母親なんだよね...」。彼は、雪の夜に出てゆく母親を追い掛けられなかったトラウマに、いつだったかワタシの前で目を真っ赤にしていた。
諸処の事情で親と生き別れた者も居る。家出や勘当や断絶による別れがある。ワタシは両親や親戚を嫌って17で家を出た。その際には5歳下の妹を全く気遣えず、さぞ傷付けてしまったことだろう。当時、妹は未だ赤いランドセルを背負っていた。
羅列した様な “別れ” は、少なからず、子供という一人では未だ生きてゆけないニンゲンのジンセイを大きく左右する。そこで一生が変わってしまう。そう知っておきながらワタシは、別居後ついに離婚という形で、自分の娘の人生を変えてしまった。当時小学6年生だった娘は「仕方無いじゃん。」と言ってくれたが、後になって「やっぱり側に居て欲しかった。」と一度だけ言われた。ワタシは昔、12歳の妹に何も言わず実家を離れたのと、全く同じ年齢の娘を置いて、家族から離れたのだった。なんという因果、己の業の深さに恐れおののいていた。そして数年が過ぎ、既に今は「もう時々会うだけでいいなあ〜。」と言われている。何泊か会えば必ず一回は軽く喧嘩になる。生意気で、可愛い。産まれてから関わる時間が多かった分、そしてワタシが父親らしくない分、娘の方がしっかりしていて、頭が上がらない。喧嘩は甘え合っているのだ。ありがたい。いつの時も影で泣いて来たが、娘も泣いて来たのだろう。彼女は「ほんの少しね。」と言っていたが、そのコトバがよく解る。痛い程に解る。いつ何処に居ても娘を思うだけで涙が出そうになる。自分がこんなニンゲンだとは思わなかった。でも申し訳ないし、泣いている場合じゃない。流す涙等は得てして自己満足だろうから。
この世に “もしも〜” は無い。誰もがそのジンセイを歩んでゆくしか道は無く、黙ってその闇を抱えたまま懸命に生きるしかない。嫌でも生きる。迷いながら生きる。それが己のジンセイだから、その道をゆく。仕方無くゆく。どうせなら、と頑張ってみる。転んで砕けても、勝手自在な思考も使ってどうにか前に進む。感情という厄介なものと折り合いつけながら、遠い目近い目、後は目を瞑り己の感を頼りに泳ぐ。とりあえず泳ぐ。いつのまにか覚えた変な泳ぎ方で泳ぐ。それしか出来ないだろう。結構疲れる。そして、本当に疲れたら死んでしまうんだろう。色んな最後は運命だ。引き寄せるも抗えない運命だ。そうゆうことなんだろう。死んでしまったヒトも居た。

 “一生に関わる” という視点で鑑みれば...それは上記とは逆に、別れなかった、つまりは捨てられも亡くなられもせず、一緒に或る程度の時期迄 “親の責任と義務” に於いて育てて貰った者でも同じ事だろう。モラトリアムなお坊ちゃんお嬢ちゃんでも同じ事だろう。通院している医院の若い医者達はなんと何人かが、実家から出た事が無い様だ。「だって楽だし、ついついね。」と言っていた。もう一人は「出る理由が無いんですよ。」と言っていた。諸処の事情があるにせよワタシには信じられない。絶対に仲良く出来ないと思う。先ず仲良くもしてくれないだろうけど。でも願い下げだ。彼氏彼女等の話題はいつも買い物とかテレビ番組、時にパック旅行だ。掌を見れば判る。やはり “甘ちゃんさ” が顔や言動にも出ている。親の金で、或るジャンルの勉強はかなりしてきたのだろう。そんな先生に治して貰っているワタシ。
(話戻してー)いずれにせよ親子が一つ屋根の下で、大切な時期から一緒に居た時間や関わりの分だけ、一生に関わる影響を受ける訳で。あらゆる影響を、望む望まず受けるのだから。

17で飛び出したワタシは今44になってしまったが、未だに父親から受けた躾という名の日々の暴力と、母親から呪文の様に受けた“間違ったマイナス思考な躾”から、自由になりきれていない気がする。正直、ことあるごとにトラウマと闘っている。
10数年前、子育て中の追体験では忘れていた事も思い出し、育ててくれた両親に感謝も覚えた。が同時に、それを越える封印していた辛い過去が襲いかかって来て、それは大変だった。我が子のかぶりついてしまいたくなる程の可愛さだけが救いだった。どんなに抱きしめてもひたすら喜ぶだけで、手足をばたつかせてきゃっきゃっと笑い、その内じぃーっとコチラを見つめ返してくる。そしてニコ〜っと笑う。ほっぺたをスリスリしている時が、人生で一番の至福の時間だった。自分がこんなに安らげる時間は、後にも先にも見当たらない。何千何百晩寄り添って寝たのだろう...ワタシはこの娘が産まれてくれた事に、本当に感謝した。
だが、沼の底に鎮まっていた何かは度々フラッシュバックを起こし、ワタシはもがいていた。元妻も父親からの虐待を体験をしてきたヒトだったので、傷もの同士のお互いは “気が休まるパートナー” “自然体で居れる相手” の筈だった。若き日に、ロックで結びついた間柄は永遠かと思い込める時期も確かに在った、だから結婚したのだった。併し、長い時間の経過と共に、「そうではなかった」と互いが思っているのだから、真に男と女の関係は哀しい。アダルトチルドレン関係やセックスレス関係やトラウマ関係、彼方此方の図書館でがむしゃらに色んな本に助けを求めたり、思い切って敬えるヒトに話を聴きに出かけたりした時期もあったが、気休めにしかならなかった。相手の居ることなのだから、開こうと努力する姿勢や足並みを揃えることは、非常に難しいもの。喧嘩にしか成らなくなった。助けを求めたりの努力は、後にもう一切辞めてしまった。自由になった訳ではなく、もうどうすることも出来なかった。下り坂を転がり出した二つバラバラの石を、同時に止めることは出来なかった。

親とは3年前に会ったきりだが、既にかなり小さく細くなっていた。今はもっと小さくなっている事だろう。ワタシだけではなく両親も又ヨスガ無く、「コインロッカーの墓を買った。」と言っていた。およそ40年間連れ添った夫婦間には、DV以外の絆も強いのだろう。並んだロッカーを買った様だ。ROCKは好きだけどロッカーは悲しい。併し彼らの選択だ。併し、墓というのは残された者への配慮なのか、この世への未練なのか、逝く日がきっとワタシより30年程長く生きている分だけ近く感じているだろうヒト達からしてみれば、一体どのような持っていき方をしての選択なのかワタシには解らない。ワタシなら骨の欠片だけ娘の机の引き出しの奥にでも容れて置いて貰い、残りの灰と滓は何処かの磯にバラまいて貰いたい。渓流の奥の名も無き滝壷でもいいが、そこへゆくには装備と技術が要るから。バラまいてくれるヒト、そんな役回りになってくれたヒトの行きたい海でいい。荒磯がいい。観光地は嫌かな。死んで尚うるさいのは迷惑な話だな...。逝く間際に娘以外に誰か一人でいい、心根の美しい女性が自分独りの時に一寸泣いて色々思い出してくれると嬉しいと思う。
さて母親は、自らが幼い頃に実父に捨てられた経験から孫(ワタシの娘)を思って「離婚だけはするな」とことあるごとに言っていたが、誰一人にも相談せず離婚した事について相当許せなかったらしく、ワタシの話等何も聴こうとはしなかった。父親に限っては以前から会いもしないし話す機会も無い。連絡等来たことも無い。ワタシは引っ越した実家に一度も足を踏み入れた事が無い。実は、住所しか知らない。たった2度、伝えておかなければ皆が困る羽目になるから苦渋を呑んで「実家に寄りたい」と連絡した。何らかの理由をつけ2度とも断られた。「T駅近くの何処かの店でなら」と言われ、「どうして外の他人が居る中で、何を話そうが取り乱すヒトに対し...」と思い、もう頑張りたくなくなった。この頃、気持ちに余裕等ゼロだった。

離婚...その重苦しさは相当なものがあった。離婚もひとそぞれであろうが、一言で言えば重い。唯 “その事実が重く其所に在る” といった感じか...。受理までは本当に大変だったのだ。当人同士の心情以外に、手続き上の苦い思い...あんな経験は二度と御免だ。承諾する他人の直筆と実印が2名分も必要で、その時点でワタシ達は互いにこのヒトならという方に頭を下げたのだが、そうスムーズには進まなかった。怒り出す人もいた。泣き出すヒトも居た。その後、疎遠になってしまったりした。結局ワタシの側には頼めるヒトが見つからなかった。2名の内1人はワタシが見た事も聞いた事も無いヒトに元妻が頼み込んだ。元妻も「胃が切れそうにホトホト疲れた」と言っていた。彼女とはその後に会いはしなかったが、別々な場所で同じ方を向いて或る似た様な努力をしているーその共同作業がひたすら悲しかった記憶が残った。そして或る日、ワタシの所に確認と称して説法の電話を下さる方が一人居た。その家は夫婦共に色々な運動家のヒトだった。元妻が頼み込んだのだ。特別親しかった訳でもないその方に、結局は保証人としてサインと実印を貰い、必要な2名が揃ったのだった。それがワタシ達の離婚手続きだった。
後にも先にも誰にも一度も相談出来ず、唯気がつけば身体中が固まっていた。駅のホームでも、飯屋のカウンターでも、何処に居ても直ぐに時間の経過を忘れてしまったりした。アパートに帰り夜を向かえるのが嫌だった。身体は激しい肉体労働に参っていた。田舎の大工と違って都会の建築現場の体育会系のノリは、まるで合わなかった。それでも抱えた借金返済だけが、無理矢理動く原動力だった。夜0時就寝、朝5時起床の繰り返し。休みは一日布団から起き上がれなかった。たまに昔の音楽仲間に会っても何も楽しくなく、ずっと都会に暮らすヒトとの感覚のギャップも、好きな世界の違いや情報交換も、結局はワタシが閉じていたのか、楽しめなかった。
そんな中で友人の姉のバンドのライブでブッキングされていた鈴木亜紀というヒトの歌を聴いた。ピアノの弾き語りだった。彼女の撮った写真も会場に展示された。多才な(努力する)才能に、うちのめされた。どこか屈折して彷徨っている感じなのに、それが見事な表現で昇華されていた。技術が相当に高く、喩えばワタシ等共演出来るレベルではなかった。そして何よりも驚いたのが、歌詞だ。表層で言い放つお仕着せの歌詞ではなく、きっとこのヒトの “ジンセイから引きずり出したコトバ” なんだろうと感じた。歌詞というより詩だった。敢えて言うならばブンガクだった。作家がピアノを使って、歌というカタチを選んで表現しているーそんな感じだった。そして何よりも、本人がその場を楽しもうとする姿勢、つまり開き方が巧みで、「ねえ、LIVE(生きる=LIFE)ってこうでしょ?」と問われている気がした。当人はと謂えば、サバサバ感じさせながらも何処か寂しげな感じもして、でも其処をぶっきらぼうさに隠してきた感じがして。聡明さは会話の初めから直ぐに伝わって来た。なのに笑顔がすこぶる可愛い...そして、まア〜つまりは打ちのめされた。「こんなにも凛として独りで頑張っているヒトが居る、ここに居る。涼しそうに居る。このヒトなりに上京後の長い曲折の間には色々あっただろうに、こんなに潔く自らを投げ出す勇気あるヒトが居る...俺は完全にマケテイル」と思ってしまった。“勝ち負け”なんて、なんて嫌なコトバだろうとも思うし、ワタシは滅多に使わない。使わないのだが、この時は何故だか、そう思ってしまったのだ。太刀打ち出来ない、俺は何をやっているんだ「俺は死んでいる」と思ったのだ。音楽どうこうではなく、己の道の歩き方として、見せつけられた気がした。ニンゲンとしてもっと色々会話したかったが出来なかった。ジンセイで一番閉じていた時期だったし。第一、極度に心が動くとワタシはコトバが出なくなってしまうのだ。以後、彼女のCD3枚はトム・ウェイツと同じ位に聴き続けるものの、ライブには出かけていない。まだまだ同じ様な気持ちに、己が負けそうだからかも知れない。このヒトの創る歌、書く言葉の奥で常日頃から見つめている、見つめてしまう何か...その “無常観” や “不確かさ” は、故郷の無いワタシの揺かごだ。こんな作品は他に無い、と言い切れる。“前を向く為の(良い意味での)諦め” を「いいんだよ」と肯定してくれる...そんな感じだ。そして失礼な表現かも知れないが、或る壁かも知れない。

(話を戻すー)以降もまだまだ立ち直れない日々が続いた。とにかく身体から疲れが抜けなかった。とことん、とことん何処かもっと薄暗い場所へ落ちてゆく感じがしていた。けれどどうしようもなかった。酷い環境の寮を出てアパートを借りる為に、休み返上で何ヶ月か働いた。一気に白髪が出だした。何年か続いていた禁煙を解除してしまった。酒を呑むと翌日起きれないので、350ml缶一本だけには押さえた。建築現場に遅刻は厳禁だ。仕事の内容より遅刻しない事が大切な位で。総てが流れ作業だから、直ぐ首を切られる。
2−3度、死にたくなった。残業なんか続くと、ろくな物食べてないし、寝れてないしで、腹も痛くていつも吐いてるし、一度、血も吐いていたのできっと潰瘍でも患っていたのだろう。古傷の椎間板ヘルニアが何度も疼きだし、常に腰椎ベルトに両膝サポーターで、背中も腕もサロンパスだらけで過ごしていた。誘われてキャバクラやイカガワシイ店にも何度か行ったりしたが、どいつもこいつもドウシヨウモナイ馬鹿ばかりで、実際に性欲の欠片も湧いて来なくて「ああ、もう駄目なのか...」なんて気持ちにもなった。毎日iPodで聴く鈴木亜紀とトム・ウェイツの無常観だけが精神安定剤だった。併し、またドウニモ出来ない幾つかの出来事が重なり、一昨年の暮れには「もうホントにどうでもいいかな」なんて気持ちになって来て、池袋で有楽町線を待ってたりすると、地下の暗いトンネルが手招きする時があった。「あの中に入ったら、飛び散った俺の肉片は係員や刑事しか見ないかな」と考えたりした。昔、中央線終点の町で育ち、鉄道自殺直後の肉片の欠片を見た記憶があった。樹海をネットで調べたり『樹の海』(いい映画だと思うけど...)という映画を何度も借りて観たり、ネットでサンポール等の薬品を調べたり、その事ばかり考えてしまう時期があった。自殺に関して知り得る情報は殆ど得ていた。それは反対に具体性が増し、ギリギリの線で冷静さを呼び、役に立ったと思う。その内、どんなに疲れていても睡眠導入薬ナシでは眠れなくなった。体重がどんどん落ちてゆくのが自分でも判ったけれど、どうにもならなかった。当時、その闇は思春期特有の自己嫌悪等とは違って、あれ程自分が何もかも「どうでもいいか」という色に染まったのには参った。もう本当に何も自分に期待出来ない、「もう頑張れない」と思っていた。働いた分は着実に借金も減り、CDや新しいギターもローンで購入したりしているにも関わらず、片方の自分は何度も遺書を書き直していた。いつも娘に宛てた一通しか書けなかった。けれど黙っていても訪ねてくれる友や、誘い出してくれた妹や、ヒトのおかげで、少しずつそんな事を考える時が減っていった。近所の猫3匹と仲良くなったのも大きい。代わりばんこに私の部屋の掃き出し窓に現れ、網戸をガリガリ爪を立てたり、或る奴は相手をするまで鳴いて待っていたり。携帯電話の写真データはそんな猫ばかりだった。彼等彼女等が帰った後はもの凄い虚しさが襲って来るのだが、触ったイキモノの柔らかさや熱の分だけ、確実に自分の気持ちのトゲトゲが鎮まり、泣いてしまいたい様な気持ちになっていた。物を食べて美味いと思う感覚を取り戻す迄に2年位かかった気がする。本当に長かった。今思うと正直なところ、頑張ればどうにか借金も返せるだろうし、何年か創作生活から離れても我慢出来るだろう、中途半端より徹底的に一度は我欲や物をなるべく捨てて生きてみる事が、どうしても必要だと思ったのだが...あまりにハード過ぎた。気持ちに肉体が付いていかず、生傷も絶えず、病気にもなり、結局は気持ちが萎えて来て、ついにはセイシンの状態がコントロール出来なくなっていったのだった。
ワタシはそんな中、仕方無く両親に何年振りに会って直に自分の口で伝えたかったのだ。それが使命だと思ったし、元妻に「早くそうして下さいね。」と何度かメールや電話で言われていたのだ。そのうちに大怪我をして入院したり、もうどん底最低最悪だった。嫌でも強くならねばならなかったのだ。

ワカラナイ。本当の事を言えば、ワタシは誰の事も信用していないし、出来ないし、困った事にニンゲンが好きなのに、嫌いなのだ。嫌いなのに、好きなのだ。何が「アリノママが一番」だ?台詞やコピーは薄っぺらい。懸命に生きていて、何がどうなろうといいじゃないか。理想なんか、どうでもいいじゃないか。色んな見方や考え方、同時に抱えて、とりあえず一歩、とりあえず一歩でいいじゃないか。変化して当たり前じゃないか。自然だって永遠に変化しているんだ。したことも、しなかったことも、みんな途中なんだ。結果も過程だろ?各々が精一杯やってればそれでいいじゃないか?何もかも終わらないだろ?死んでしまう迄は続くんだ。それでもジンセイは続くだ。
この世のイキモノでニンゲンが一番複雑な訳じゃない。かしこい訳じゃない。ましてやちっとも偉くなんかない。男達は何を威張っているのだ?女達は何を気取っているのだ?ニンゲンは本来は醜く、汚いのだ。初めっから、うんちと、血と、汗と、色んな汁や滓にまみれてたのだ。羊水神話なんか “癒し” という言葉と同じで、余裕有る者のイメージのネタだ。ニンゲンは産まれ出た時点、否、受精した時点で、真っ白いキャンバスなんかじゃない。真っ赤で黒々とした粘つくキャンバスだ。だからこそ美しさや可愛さに魅かれ、一瞬の輝きや、思い込める何かを心の底から求めてしまうのだ。
そんなことぐらい平々凡々と生きていないのなら、その内各々で悟る筈だろう。血族関係も夫婦関係もしくじったワタシだが、考えてみたら自分関係ーつまりは自分自身が、己のセイシンみたいなものと仲良く出来ないことが根底にあったのかも知れない。他人の事はやっぱり解らないし、自分の事も解らないし、何かのせいにして逃げられたらどんなにか楽だろうか...否、その行く末は楽じゃないな、より闇だな。ヒトは何に不満を覚えるのだろう?許せないのだろう?決して答えは一つじゃないが、明白だろう。結局は自分自身だろう。頭脳で “割り切る” という問題ではなく、“総て抱えてGo!” でいいじゃないか...

これがワタシに流れている血の話の極一部だ。ワタシはそんな釜の底からやって来た。山から降りて来た訳じゃないんだ。どうして奇麗事や、生温さや、エエカッコしいに多少なりとも染まれる?虚栄人は嫌いだ。潔癖人も嫌いだ。型にはまって流行を気にしている人は嫌いだ。勝手につるんでいてくれ。俺は『サザエさん』が大嫌いなんだ。蕁麻疹が出る。(テレビは持たないから知らなかったが、浅野忠信がCMでカツオを演ったと人から聞いて、正直がっかりした。作品を選ぶのがオマエじゃなかったのか?俺はオマエが10代でNHKドラマに出た時から応援していたんだ。オマエは未来を計算してカツオを選んだのだな...がっかりだぜ。)
若い頃はもっと攻撃的だった。ファッションだけでロックどうこう言ってるボンボンな奴を見ると「オマエは唯カッコウつけてカタチに酔っているだけだよ!」とか言って、平気で喧嘩を売ったりしていた。喧嘩なら誰にも負ける気がしなかった。「誰も何も怖くない」と嘯きながら、何かに怯えていたんだろう。無茶してラリって、走って、彷徨って、20年過ぎればどうなるか?答えは、腰痛とか神経痛とかアチコチ大変になる。違うか...。内心変わらずとも、表に出ようとする衝動位はコントロール出来る様にはなったけれど。先ず他人に期待しなくなったというか、“諦めが前提の方がシアワセを呼び込む” と悟ったから、割とヒトと何を話しても楽しめる。ジンセイ時間の共有を感じれれば、それこそが愛おしい。でもそれは表層の意識であって...内側の奥ではタマシイの触合いを求めている。リアルな感触を求めている。まあ、誰でもそんなものだろう?もし「タマシイって何さ?」と絡んで来るヒトが居たら、「そんなことは中学生の俺の娘でも知ってるぞ!」と教えてあげる。“気構え” とか “気の保ち様” なんて話じゃない。信じているだけ、の話じゃない。絶対在るんだ。
けれども...タマシイの会話、タマシイの触れ合いなんてのは滅多に無いから、諦めている。いざこちらが開いても、相手にいつまでもカッコつけられたら、今のワタシは黙って引くしかない。
ヒトが虚栄心の衣に隠しているのは何だ?考えれば直ぐ解る筈だろう。それでもその演出舞台から飛び降りる勇気を持たないなら、ワタシは沈黙するか立ち去るしかない。寂しくても去る。そのぐらいの寂しさでネを挙げていたら、釜の底迄行った甲斐が無い。いざの時しか闘わなくていいんだから。日々、自分より弱い者に、良くない甘えで吠えたり威張ったりしているワタシの父親の様なヒトは可哀想だ。裸の王様だ。様々な空回りの甲斐の無さを克服するのは、中庸や馴れ合いじゃないと思う。サビシサに負けないで、年齢や、常識や、過去に負けないで、それでも尚求め続けるココロだと思うんだ。何を求めるって?タマシイを、だよ!
あ、唯一つ俺だって、否、俺こそ弱いニンゲンだから、弱さの塊だから、人肌の温もりには飢えている。ヒトの熱だ。そこだけは生温くていい。あれ程、落ち着かせてくれて、やさしい気持ちにさせてくれるものはないだろう。がっかりさせたかな?でもセツナって話じゃ無い。素直な告白さ。
ところがね...色々嫌でも経験してくると段々臆病になる。かなり臆病になる。今ではすっかり隠居の身だ。40代で隠居かよ?って嘆きが入る。いざの時にもアソコも活躍出来そうにない。医者に行った方がいいかも知れない。かなりコンプレックスだ。考えると滅入る。ホント嫌になる。嫌になっちゃうな〜だから、考えない様にしてる。(まあココで笑ってくれ!)かなりカナシイ時は、地下鉄のトンネルを思い出す。すると、何でも耐えられる、抱えて生きれる気がしてくる。何故ならあの場所がワタシの釜の底なんだ。ワタシのジンセイにあの場所以下は存在しない。もしかしたらあの場所を視てから再び歩き出すーその為に、幼い頃から安楽椅子が無かったのかも知れないなと、ふと思った。今日、ここまで書いいてしまった事で、ワタシは何か憑き物が落ちる様な予感がしているのだが...

しかし何だな〜都会では、ジョセイが皆同じ “しかめっ面のクローン人間” に見えて仕方無い。内側から滲み出て来る様なニンゲン臭さというか、先ずそのヒトの匂いがしない。魅力的なジョセイは皆或る意味で遠い。何年も陰から慕っているジョセイは居たが、他人のパートナーだった。完全なる片想いだった。
そして皆、御自分の世界に居る。現代は生活環境が整っていて、割りかしその余裕の姿勢が持続可能だ。そして時間は停まっちゃくれないから、急に焦り出して婚活なんて始める。そんで己の理想とか掲げて募集する。応募する。阿呆みたいな話だ。何処に居ても情報に事欠かないのは、或る意味イキモノとして本来の感とか鈍らせるね。幾ら広く浅く知ったところで、例えば多くのヒトと付き合った所で、得られない掴めないものが在る。プライドばっかし高くちゃ駄目だろうよ。大した事無いんだからニンゲンなんて!“ワタシらしさ” なんて考え出して守りに入ったら、余計に己の扉は開いているようで閉じてゆくだけだよ。理想なんか掲げて、結局は生半可な開き方じゃ、リアルなシアワセは掴めないと思うんだ。
各々が過去や、理想や、抱えているものと闘ってはいる筈だけどね。でも、もう他がどうでもよくなる位に「何かしたい!」とか、「得たい!」とか、「独りは嫌だ!」とか、「ここは嫌だ!」となれば、閉じている場合じゃないし、理想なんてのに縛られてたら不幸を呼ぶだけさ。己はなんぼのもんじゃい?って話さ。怖いのは他人ではなく自分自身であり、そしてそれは当然持つべき客観であり、「信じれない」としたら、それは相手や対象の問題以前に、己の今迄の生き方の何処か大切な部分が、結局は “他力本願” だったからではないだろうか?だから自分を信じれないのだ。結果ばかりシュミレーションしてたってリアルは来ないきっと、ワタシもそんな部分が多かったんだ。だからヒトを潔く信じなかったのだ。相手を。己を。

以前、「早くカノジョ作んなよ。私なんかこの間、彼氏と別れちゃったよ!」と言う娘に対し、内心(えっ、え〜!そうなの?もう、そうなの?)と思ったが、ソコはとりあえず無視してワタシは尋ねた。
「一体どうやって作るんだよ?」
「え〜ワカンナイよ。どっか出かけるとかさ、誰かに紹介してもらうとかさ!」
「いいよ。カノジョなんか欲しい訳じゃないから。」
「え?じゃあどうすんのよ。寂しいとか言う癖に、独りで食べる飯は不味いって言ってる癖に。ずっと一人で居るの?」
「俺はね、パートナーが欲しいんだよ。刺激し合って助け合える様なパートナーが。強さと弱さ、光と影を持ったジョセイがさ!」
「何、パートナーって!結局カノジョって事でしょ?」
「ウ〜ン、一寸違う。かなり違う。」
「どう違うの?全然違わないじゃん!ねえ、どう違うのさ!」
「追いまくるなよ〜。俺話すの遅いんだからさ...。あのな、一番はタマシイの在り処が似てなきゃ、そう思い込めなきゃパートナーには成れないんだ。なんとなく好きとか嫌いとか、そんなレベルじゃないんだな。」
「あ〞〜もう、まったく!又タマシイとか言ってるんだ...だから駄目なんじゃないの!?そんな事言ってたら、いつまで経っても出来ないよ。見つからないよパートナー!」
げげ...“駄目” なの俺?って思いつつ、ソコもとりあえず無視して。ワタシは “ヒトや、ライフワークや、出逢いや別れは、運命とかそういった見えない定めみたいなものかも知れない” という話を、真面目腐って話した。だからカノジョを自ら探す気は全然無いんだと告げた。「どんどん歳をとるのは実に哀しいけれど、出逢わなければソレも又定めなのかも知れないね。」と告げた。
娘には、幼い頃からタマシイの話は色んな角度から話してきたので「又かよ〜!」って訳だったろう。
でも、そっぽを向きながらも神妙に聴いていた娘は「ふ〜ん、そんなもんかなあ。まあ、そうかも知れないね...アタシだってそうだよ。きっとそうだよ...」と言った。


大幅に話がくねって逸れてしまった。
末代まで影響する血の関係。上記の “親” という言葉の部分を “家” に変えても似た様な話かも知れない。だが、“故郷” に変えると一寸話が変わってくるかも知れないけれど。
喩えばこの国に生まれた者が、メンフィスや、カトマンズや、或はアルゼンチンが我が心の “故郷” だと信じ込んで生きようが、それはそのヒトの自由な話なのだから。20代の頃のワタシと同じくTHE DOORS信奉者で、インドに行ったまま行方知れずになってしまった奴がいた。いつもベリコデをボリボリ食っていた。早くからヨガや瞑想にハマり、そういった意味では一歩も二歩も先に老生していて、ストーンズで謂えば、彼はまるでブライアン・ジョーンズだった。(本人はジム・モリソンのつもりだったんだろうけど...。)彼の失踪はまさしく沢木耕太郎の『彼等の流儀』所収「ミッシング」さながらの話だった。彼は「インドの〜が俺の故郷だ」(地名は忘れた)とワタシに言った事があった。「オマエには故郷があるか?」と尋ねられた時、ワタシは即座に「ナイんだ。」と答えた。彼が故郷に消えたのなら、それはそれでシアワセな事かも知れないと思う。...ワタシは何処で消えるのだろうか?皆目、見当がつかない。(願望はタマシイの似たパートナーが居たら、その腕の中で眠る様に...とか言いたい所だが、一カ所出来れば最後に行きたい場所が在る。まあ、最後の状態でそんな僻地に行く事は難しいのだが。それは国内の山奥の或る渓だ。4月〜11月ならば、都会から5時間あれば着く筈だが、専用の履物だけは要る。その話は又の機会にでも書こうと思う。)
しかし “故郷” というニュアンスと異なり、何がどうあれど赤の他人を自分の “親” だとか、他所の家を自分の原風景としての “家” の様には、なかなか思い込めるものじゃないと思うのだ。
長い時間を共に過ごせば愛着は沸く。それは “郷愁” というもの。ヒトなら “情” が沸く。併し、ここでワタシの云う親や家と、そんな “郷愁” や “情” とは、まるで違うものだ。
だからこそ...未だ今は死なない定めならば、大切なのは此処から先なのだからして、何だっていいから、もし “信じ込める、或は思い込める何か” があったならば、先々の結果はどうあれ、向かったらいい。ヒトはそれだけシアワセになれる筈とワタシは思う。大切なのは結果じゃない。あくまで過程の筈だ。「違う」という知人も何人か居た。恐れ入った。併し、結果等出ない己の人生からは、この様に思って前を向くしかない。当たって砕けて、玉砕したっていいじゃないか!生き抜けば、それでいいじゃないか。壊れかけでも、俺はこうしてどうにか元気に生きているぞ?こんなんじゃ駄目か?

(新興宗教に依存している方に向けては言わないが、)誰もが、信じたい何かを勝手に信じればいいんだと思う。何故なら心底信じるなんて、そう簡単に出来る事じゃないのだから経験を重ねりゃ余計難しくなりがちだ。何故?答えは簡単。泣きたくないからだ。我が身可愛く、失敗が怖いからだ。中庸無事な安全飛行で逃げ切れるなら、それで満足出来る器ならそれもいいだろう。ヒトは皆違うのだからして。でもワタシは其処に、ほとばしる様なリアルな悦びは存在しない事も知っている。(同じ様な事ばっかり書いてごめんね。自分の為に書いてるからさ、許しておくれ。)
いざ信じたい時に己を懸けれるか否か、己のドアを開けるか否かーそこでジンセイは大きく二つに別れるんだ。後戻り出来なくても「自分独りで決めた事なら悔いは残らない」と迄は決して言わないが、喩え後々砕けても “イキテイル実感” は感じられる。もしリアルが欲しいなら、リアルな感覚を覚えたいなら、「チャンスを逃しちゃ駄目だ」ではなくて...「チャンスを創るのは自分自身」ということだろう。上や下や横ばかり気にして、“立ち位置” や “私らしさ” なんて気にしていたんじゃ、つまらない。浅くて悲しい。そんなもの大したもんじゃない筈だ。
言葉を代えれば、いざの際の “潔さ” や、どれだけ “己に馬鹿になれるか” なのかも知れない。難しいけれど。だって、それは限られた狭い井戸で、いつもの仲間と馬鹿騒ぎする事ではなく、ジンセイに時々訪れる分かれ道の岐路に立った際に、普段は眠る己の扉を、潔く “開く柔軟さ” であるから。それって、とても難しい。けれど思うんだ。“生きてみる価値” とは、其処に在るだろうって。


植物も、動物も、昆虫も、魚も、みんな「生きよう」としている。「何も考えず本能で生きているだけだ」とは、澄まし顔で学者が言っていればいい事だから、ワタシは違うドアから覗く。
彼等はみんな、何とな〜く生きているんじゃなくて、種の法則に乗っとりながらも、あらゆる環境の変化に、黙って対応しながら、創意工夫とかオリジナルとか課題名目なんか掲げずに、唯ひたすら、ひたすら自分を生きている様に感じる。(そう云えば〜猫好きなヒトは、猫の自由さ気ままさと、調子のいい可愛いところのギャップ、つまり超マイペースで “自分を生きている” 姿に憧れているのかも知れない。)
ニンゲン以外はみんな、己の生を全うすべく、成長と繁殖の為だけに泳いだり、走ったり、はびこったり、空に向かって伸びたりしている。実に多様でありながら、実にシンプルだ。そして美しい。どんなイキモノも美しい。色もフォルムもなんて美しいんだろうと思う。野生のニホンカモシカやオコジョ、小さいものではカヤネズミやヤマネ等の美しさはもう喩え様が無い。渓流魚の銀鱗や勇ましい顔、昆虫の部分を拡大して視たり、卵から孵る姿、どれもが涙が出る様な美しさだ。ひれ伏したくなる様な美しさだ。美人とモテはやされているジョセイに、得てしてそんな美しさは感じられない。
考えてみればワタシたち皆が或る意味で自然の一部なのだけど...なんでこんなに醜いんだろうね?なんでカッコつけるんだろうね。なんで化粧する?なんで背を高く、足を長く魅せたがる?男らしく、女らしくって何?なんで求めるの?ドウデモイイジャン、ソンナコト! アリノママとか、自然なのが一番なんて言う者に限って、なんで隠したがる?恐れるに足る自分なのか...そんなに凄いのかニンゲンのアナタって?
いずれ、アッという間に死ぬんだぜ?忌の際、あの世へ旅立つ瞬間に何が持ってゆける?どんな思いを抱いて逝きたい?迷ったらいつだって、其処の処を問えば、自ずと “とりあえずの一歩” が踏み出せる、そのさ!これが釜の底から掴んできたものだ。今日、再確認する為にこれを書いてみたんだ。
(若いうちは本気でなんか考えられないんだよね。考えなくていいんだし。ワタシも考えたくて考え出したんじゃないんだ。ま、“成り行き上仕方無く〜”って奴よ!)


(また話は変わるがー)羽根を休めたり、タライで足を洗う家があろうが無かろうが、“我のマリア” が居ようが居まいが、彷徨う奴は彷徨う。漂うやつは漂う。タマシイに従っちゃう奴だ。良い悪いの問題じゃない。性別にも関係無い。
漂う者は互いに押し付けがましくなく、良い意味で概念的に、又、逆も真なりでつきあえる...時もある。基本はツルマナイヒトだ。単独行動が出来るヒトは、“強さを己の弱さで創ったヒト”だろう。弱さやドウシヨウモナサを知っているヒトは優しい。己が見せかけではない優しさを求めているから、求めているヒトには与えられるのだろう。ワタシにはそんな友がほんのちょっと確実に居る。アリガタイ。だから元気になりつつある。
見返りばかり求めているヒーロー&ヒロインは、スクリーンの中でのハッピーエンドに参加出来ても、現実のリアルなシアワセの瞬間は掴めないと思う。何故掴めないか?その理由は、“手や足を汚さない” からだ。奇麗に、カッコよく、短期間で、痛い思いせず...そんなに簡単には(神なのか何なのか判らないけど)許しちゃくれない。
だから、這いつくばれ、己を開け、ってことなんだろう。シアワセとは “一瞬だから” ね。目で見るとか、耳で聞くとか、せいぜいそんな器官だけに頼るんじゃ掴めないんだ。シアワセは総ての器官で掴むものだろ?パッと消えちゃうんだから...パッとね。だよな?俺。


よく想像する風景が幾つか在る。その一つが海原のみの景色で、そこにブイが浮かんでいたりする。一個が見える時もあれば、幾つも点在して見える時もある。
漂いながら、漂流物となったブイは、再び繋がれる事を何処かで望んでいるのか...
ロープで繋がれているブイは、いずれは解き放たれ、大海の迷子になる事を望んでいるのか...

そう云えば...現代の蛍光色の硬質カーボン製の様なブイとは違って、昔、ブイはみな硝子で出来ていたと思う。海水浴場の海の家や土産物屋に吊り下げられているアレだ。ワタシは子供の頃からアレが気になって仕方がなかった。ハリセンボンの剥製ランプより、硝子のブイが欲しくて仕方がなかった。今でも誰かくれないかな〜と思っている。
以前、西伊豆の雲見に釣りに行った際、一般の御宅の軒先にとてもいい感じの大きな硝子のブイが吊られていた。埃を冠っていて、もう何年もそこに吊り下げっぱなしで誰も見向きもしない感じがした。盗んでいこうかと思ったりしたが(あ、コレ冗談ね)ラクダ色の腹巻きをした御隠居さんに見つかり「ん?どうした?」と尋ねられた。
「あ、あの...このブイいいな〜と思って。」
「え?あ、あ〜コレな。コレかあ〜。あ〜まあ〜こんなもんなあ。フぇっフぇっ(あ、これ笑っている感じネ)」
「年代物ですよねえ?なんか、凄い好きだなあ〜とか思って見てたんです。」
「そうか。こんなもん、ええか?こんなもん。エラいもう古くて、誰も見向きもせんよ。ずっとこのまんまよ。何とはなしにココにこうして吊る下げとって、ずっとこのまんまよ。」
話したくて仕方無いお爺さんだったみたいで、ひとしきりその辺りの昔の話を聴かされた。
そしてワタシは一か八か、思い切って切り出した。
「あのう〜突然なんですけど、コレ、もしかして譲ってもらえたりは...しませんか?そんなにお金無いんですけど。多少ならお支払い出来ますので、もし良かったら言ってみて下さい。」
結果、頑として譲っていただけなかった。
金額の問題じゃなかった。思い出の品だったからだ。
そう云えば、その時から本物の硝子のブイは見ていない。海も昨秋、遠くから眺めただけだ。


想像してごらん。
夜の海原に、無数の星々や月の灯りを映して、硝子のブイが幾つも浮かんでいる絵を。
ヒトの心の奥。ずっと底の方。
孤独なタマシイは、硝子のブイのようなものだとワタシは思ったりする。




       (只今の脳内ミュージック/THE DOORS "The Crystal Ship" )

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50. エレクトーンの音色/みんな途中#8 [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]

*先程、友人から電話で「梅雨明けたみたいだよ」と聞き、急いでアップした次第です。
何とも過ごしにくい天候が続き、洗濯物が乾かない。

少し前までなら、雨の日は部屋の中に取り込んで、カーテンレールや押し入れの枠なんかに干しておけば、そのうち乾いたからさ。やってみた。

そしたら洗濯物がなんとなく臭くなっちゃった。

部屋干ししても臭くならないって洗剤の箱に書いてあるんだけど!?

もう部屋に取り込むのは止めようっ!

 

この季節ならではの花、紫陽花のピークも過ぎたかな?

毎日歩く道のコースを変えたりしても、どの家の庭先の花もそんな感じ。茶色くしおれてきてる。湿度が高すぎるのかな? あ、ついつい花って書いちゃったけど、アレ紫陽花の丸く寄り添って花みたいに見えてるのは、正確には「ガク」なんだよね。“装飾花” って呼ぶらしい。子供の頃、大人から「ありゃ花じゃないんだよ。」そう説明されて「なんか変なの〜」って思ったな。でも、わざわざ会話で「紫陽花のガクが奇麗ですなあ〜」なんて言わないやね。まあ、そんな知識は知っててどうなるってものじゃないけどね。

渓流なんかに出かけて沢沿いにひっそり咲く野生の紫陽花の仲間に出逢うと、必ず思い出すんだ。誰かから教わったその話を。「花じゃないんだっけ...」って。

 

紫陽花にも沢山種類がある。みんな咲き方が全然違うし。生えている場所の環境、特に土壌の成分に依ってだろうか、微妙に色も違う。水色・赤紫・青紫...いやいや、そんな陳腐な表現じゃ言い尽くせない程に、淡いトーンの違いがあって。

野生の紫陽花はどれも割りかし小ぶりで、なんて言うのかな...清楚な感じで。とても美しい。杣路の脇に咲いたコアジサイの小さく可憐な姿には、しばし立ち止まらざるを得ない。葉の薄い黄緑色と花のオフホワイトの組み合わせが、何とも言えない儚い美しさなんだ。

家の庭先に咲く大きな丸い紫陽花もピークは華々しく、何て言うか賑やかで奇麗だけど、野生の紫陽花を知ると駄目だね。目立とうとし過ぎてる感じがして。立派過ぎる。何に於いても比較するなんてことは不幸の始まりかも知れないけど、どうも駄目だね。昔、庭の紫陽花を見ながら「紫陽花はオマエの花だよ。」なんて、ただ僕がこの時期に生まれたからという理由だけでそう言った親のコトバが邪魔しているのだろうか...

植物には、否、ニンゲン以外の生き物には、虚栄心や邪念やそんな気はさらさらなくて、他と比較されたら迷惑な話だろうけどさ。第一、迷惑も何も感じないか... そこが凄いんだけど...

まあ、種を越えての僕と紫陽花だけの “相性の問題“ ?だから、仕方無いーってことで。

傲慢です。否、強引です。はい。

 

 

幼い頃、育った家に紫陽花の株が玄関側にひとつ、庭側にひとつ、2箇所に植わっていた。

実家は急峻な崖をL型に切り盛りした土地に在った。方角的には庭側が真南だったけど、見事に崖を背負っていたので、陽当たりはすこぶる悪かった。平均して午后3時くらいには陽が翳るので、朝の布団干しや洗濯の際の母親は必死だったと思う。

よく布団干しを手伝わされた。と云うより僕は寝小便小僧だったので仕方がなかった。

小学校5年生位まで治らなかった。勿論毎日じゃないけど。

尿道の締まりが悪かったのかな? いや違うのだ。へんな夢ばかり見る子供だったから。

(今日は人称を初めてにしてみたんだけど「僕は寝小便小僧だった」って、微妙に可笑しくない?)

 

直ぐ隣りに同い年の女の子が住んでいた。

その子に、よく二階の窓の隙間から覗いて視られていた。布団干してるのを!僕が作った世界地図を!(笑)

彼女は「あ、今日は漏らしてないな〜」なんて感じで観察してたのだろうか。

けれど、一度もからかわれた事はなかった。彼女はそんな子じゃなかったんだ。小さい頃から無口な子だった。

4-5歳の頃だったか、その子のお父さんが亡くなった。つまり僕にとったらば隣りのオジさんが。

オジさんは大工だった。隣りで自宅を2階建てに建直している際に屋根から落ちて...。それは日曜だった。念願の自宅建築だったのだろうし、休みなく頑張ってたのかな...

僕の親含めて近所中の大人たちの雰囲気で、何か恐ろしい事が起こったと子供心に察知したけれど、前後の事はよく思い出せない。あまりに驚いて、幼かった自分は直ぐに理解が出来なかった。切り取った写真の様に幾つかの場面を覚えているだけだ。

以来、彼女は益々無口で表情の無い子供になったんだ。

 

僕らは小学生になった。下校が一緒で別れ際に「バイバイ」とか「じゃね」とか言うくらいで、二人だけじゃ何も話さなかった。「トカゲ捕まえたよ。」って見せたり、「オニヤンマ捕まえたよ」って見せたり、そんな子供ならではの自慢をしたくらいだった。そんな時彼女は、黙って一寸ニコッと微笑むくらいで、せいぜい小さな声で一言「すごいね」と。そんな反応だった。

僕は気管支が弱く、しょっちゅう高熱を出して学校を休んでばかりいる子供だったのだがーそんな時、宿題を届けてくれる女の子が二人居た。やはり幼馴染みで4歳ぐらいから遊んで来た子だった。思えば近所で歳の近い幼馴染みは、見事に全員女子だった。そして僕には妹が居た。だから、魚釣りを覚えるまでは、いつも女の子と遊んでいた記憶ばかりだ。

宿題を届けてくれる二人は明るい子でね。後々色々あって一人はかなり早くに道を踏み外しちゃうんだけど、とにかくその頃は二人共明るくハキハキした子だった。僕の母親もその子たちの事を気に入ってて、家に来ると喜んでいた。

でも、家に上がってその日学校であった事を教えてくれる子は、初めは3人だった。もう一人、隣りの彼女が居たのだ。でも、いつの間にか殆ど来なくなった。

勿論、家族の中だけではあったけれど、「◯◯ちゃんは本当に無口な子だねえ。仕方無いねえ、お父さんがー」って、何度も同じ台詞をまるで呪文の様に口にする自分の母親を、僕は煙たく思っていた。

 

 いつの日からかは判らない。朝、布団を干していると、その子が二階の窓から覗いていた。こっそりと、じゃなく。かといって大っぴらに堂々とじゃなく。10センチ位開けた窓の隙間からこっちを見ていた。

そしてほんの少し笑みを浮かべて、スッと引っ込んじゃうのだった。ゆっくりと窓が閉まる映像も記憶に残っている...

なにせ赤ん坊の頃からの知り合いだから、俺も漏らさずに済んだ日(笑!)には軽く手なんか振ったりしていた。恥ずかしいくせに無視しきれなかったのは、我が生まれもっての性格だろうか、隣りの彼女の “微妙な窓の開け具合” だったのだろうか... いずれにせよ、物心ついた時にはいつも隣りに居たその子に対して、僕の内には早くから「カッコ悪くて当たり前」って開き直れる部分があったのかも知れない。

でもやっぱり子供だった。漏らしちゃった朝に母親にブチブチ言われている際には、それはそれは!顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。妹に対してそこまでの恥ずかしさは感じなかったから、やはり隣りの彼女を、子供なりに “他人” として意識していたのだ。

 

彼女は背が高いのに、学校では本当に暗くて目立たなくて。僕は内心ではいつも気にしていた。

その頃の僕は既に、自分の悩みや願望に押しつぶされそうで悶々としていた筈なのに、彼女の底知れない冷めた表情は無視しきれるものではなかったのだ。なにせオムツをしていた頃から並んで育った間柄だったからだろう。それから彼女の髪はかなり “くせっ毛” だった。僕も “くせっ毛” だった。子供にとってコレは結構な問題だった。学校では、二人共夫々に、ことあるごと髪のことでかなりからかわれていた。

いわゆる年頃になって、そう...あれは中学1年だった。たった一度だけ、2階の彼女の部屋に入った事があった。

やはり下校が一緒になった際、僕から話しかけたのだった。「◯◯ちゃん、よくエレクトーン弾いてるね。」って。地域の回覧板を届けた際に親からの伝言を伝えたり、道ですれ違った際に軽く手を振ったり、そんな接触以外は実に何年振りの会話らしい会話だった。

彼女が弾くエレクトーンの音色は、もう何年も前から聴こえてきていた。

僕は小6位からどっぷりロック少年だったから、彼女が弾くクラシック的な?練習曲や総てに興味は湧かなかったんだけど、直ぐ隣り、数メートル先で弾いているのだから、音は筒抜けであり。日々の上達が手にとる様に判る訳で。「あ、同じとこ間違えたな...」とか「新しい曲始めたな」とか。

でも、時々は毛色の違う曲を演奏する時があって。あの頃台頭してきた、と云うかカテゴライズされたニューミュージックって奴を。或る時から彼女はその曲だけ、演奏しながら歌う様になっていた。

全然知らない歌だった。でもこっちはメロディーと構成まで覚えてしまった。

 

話は前後左右してしまうがー自分で確実にあれが初恋だったと思える相手は別の女子だった。

その子は、とっくに親の都合で引っ越してしまった。その子も近所に住んでいて、僕はその子とお姉さんと3人で一緒にプールに行く位、仲良く遊んでいた仲だった。

その子が他の男子と仲良く話しているのを見ただけで、悲しい様な(この頃は未だ、“切ない”なんてコトバは知らない)堪らない気持ちになって、その時初めて「ボクはあの子が好きだ」と自意識を持った。

引っ越しの手伝いに行って、最後にお姉さんの提案でトランプで “51” と ”7並べ” をした。その子を乗せたトラックが見えなくなるまで見送ったあの日...僕は又一つ、 この世の中にはどうにもならない事がある と知った。

親の都合の “引っ越しでお別れ” という、子供にはどうにも出来ない事態、その突然の失恋に、十代前半の僕はかなり参ったまま過ごしていた。知らされてからほんの2週間足らずで越してしまった、あの喪失感は凄かった。

 

だから〜と云うのも乱暴な話だが、隣りの彼女の家にあがる際も冷めた子供だった僕は「本当に久しぶりだよね。」なんて感慨ばかりで。つまりは思春期のときめきみたいな浮いた感情はなかったと思う。自分にとっての隣りの彼女は、あまり口はきかなくとも長い時間一緒に過ごしたという、あくまでも一番古くからの “幼馴染み” だった。

二人だけで部屋に居ても、あんまり話す事もなくて。ひたすら彼女の部屋の奇麗さ、というか “物の少なさ” に驚いていた。その時、彼女の部屋から自分の家を見ている事自体が、なんだか不思議な感じがしていた。

布がかけてある大きな機械みたいのがあって「コレ何?」って尋ねると「ブラザー編み機だよ。」「最近は殆ど使わないけど、前はお母さんがよく編んでいたの。」。彼女には弟が居て、どうやら姉弟ふたりのセーター等はどれもお母さんのお手製だったらしい。

思い切って、ぜひエレクトーンを弾いてくれないかと頼んだ。彼女初めは「恥ずかしいから」と照れていた。でも僕はどうしてもその歌をちゃんとナマで聴いてみたかったのだ。何年も聴いてきたその歌を。

「あの歌が聴きたいな。ホラあの... “あなたを乗せた舟が〜小さくなってゆく〜とか云う奴さ!」

つい口ずさんでそう言うと、「ああ、イルカね」と少し表情を変えて、彼女はもじもじしながらもエレクトーンの前へ行った。引き込みタイプの蛇腹状のカバーを仕舞うと、その下から白黒の鍵盤が現れた。

僕はもう息を飲むばかりだった。音楽の先生のピアノでも、町内の祭りの古式ゆかしき太鼓でも、僕は演奏前の一瞬の緊張感にドキドキしていたものだ。その時、ヒトの表情や場の空気みたいなものが、一瞬にして変わる。音を出す前のほんの一瞬、全てが止まる様な、あの感じがとても好きだったのだ。

指ならしだったのか何フレーズか音を出した後、彼女は「なんだか恥ずかしいから、こっち見ないでね。」と言って、姿勢を正して、そして弾き出した。イルカの『海岸通』(作詞作曲/伊勢正三)という曲だった。

歌うのを見ていないフリをしながら盗み見た。彼女はとても気持ち良さそうに歌っていた。

びっくりした。それまでに、彼女のー否、同じ年頃のヒトの、そんな表情は一度も見たことが無かった。

驚いたまま、言われた通りに窓の方、僕が漏らした布団を干していたのを彼女が見ていた窓、つまり自分の家の方を向いて、最後まで聴いた。

途中何度か躓きながらも、彼女は一所懸命に演奏し、歌ってくれた。

 

声は奇麗だし、歌も上手かったと思う。やはりナマ演奏は違う。隣りの家で聴くのと違う。

拍手したかどうか、中1の自分がそんな気の利いた表現はとっさに出来なかったと思う。「すごいよ!すごい、すごいっ」たしか、そんな感じの事しか言えなかったと思う。よく覚えてない。

「アタシこの歌好きなんだ...」と彼女は言い、「ジュンちゃんも最近、あれなんて言うの?ロック? 英語の歌よく聴いてるよね。」と言った。

「俺の親は嫌がるんだよ。特に父親がさ。だから父親が居る時はヘッドフォンで聴いてるんだ。」

「普段、学校帰ってから凄い音でかけてるでしょ?」と彼女が言うので「あ、ごめん。ウルサい?」と尋ねたら、「ううん。アタシよく知らないけど、何だかいいなあっていつも思ってて。」

ああ、そうなのか、良かった、と思った。「ああゆうウルサいのは嫌い」と言われるかと心配した。

思いながら、「やっぱりお互いの家のドタバタから何から筒抜けなんだな...」って思っていた。

僕は、彼女がよく弟を凄い勢いで怒鳴りつけ、執拗に追いつめてしまう隠れた一面を知っていた。

そして...僕が幼い頃から父親に殴られ、よく外の物置小屋に閉じ込められたりしていたのを、そんなドタバタの何もかもを、彼女は知っているのだった。早くに父親を亡くして一層無口になってしまった彼女が、僕と父親のやり取りを長きに渡って、嫌が応でも聞かされていた訳だ。

出された飲み物を飲んで、少し話した後「じゃあ又ね。又、聴かせてね。」そう言って帰った。直ぐ隣りの家に。

 

その日以降も何も変わらなかった。

僕は実家から、その町から、逃げ出す事ばかり考えながら、四六時中ロックを聴いて、くだらない落書きを描くばかりだったし。隣りの彼女は、学校では相変わらず殆ど声を出さない、無口な女子のままだったし。唯、哀しいかな女性の成長は早い。彼女の胸はどんどん膨らみ、奇麗になっていった。

だけど僕らは相変わらず、学校内ではお互いに口を聞く事も無かったし、町ですれ違っても軽く手を振るくらいだった。

 

 

中学3年の冬、ジョン・レノンが殺され、あまりのショックに僕は初めての登校拒否をした。

卒業して、家から遠い都立高校に進学した。隣りの彼女は就職した。「何処でもいいから早く働きたい。」と自分から親に言ったらしい。

 

僕は高校の自由な校風の中、髪をどんどん伸ばし出し、殆ど私服で通い、軽音楽部でバンドの楽しさを覚え、酒を覚え、年上の女性に夢中になった。高校の美術の教育実習生だった。秋田から上京して、トイレ共同のボロアパートで頑張っている彼女に、映画や音楽の趣味の上でも大きな影響を受けた。例えば、パンクやハードロックに夢中だった自分にフリートウッド・マックの渋さを教えてくれたのは彼女だった。彼女も又、父親のしつけと称した暴力が酷く、よく弟と二人で押し入れに逃げ込んで育ってきたヒトだった。しかし父親が亡くなったのを機会に、自分で働きながら通う約束で美術短大に進学し、同時に上京したのだった。故郷に置いてきた弟の事を、時々わざと無表情な顔をして話していた。

けれどもフられたのだ。居酒屋で知り合った年上の公務員と二股をかけられていたのだ。或る日突然、アパートがもぬけの殻だった。

一ヶ月程して手紙が届いた。キャラクターが印刷された便せんに、奇麗事が綴ってあった。ショックだった。やっと何でも話せる相手を見つけたと思っていたから。だが、彼女にとってはそうではなかったのだろう。若い頃の歳の差は、歳をとってからのソレとは異なり、色々な意味で大きかった。

当然学業にもまるで熱が入らず、性懲りも無く彼女の親友と連絡をとった。どうにかして本人と話をするには連絡先を知っているであろう親友にお願いするしか無かった。親友は「会ってお話ししましょう」と言ってくれたのだが、当時の僕には冷静な頭も何の余裕もなく、再三の申し出を断ってしまった。

何度目かの電話でその親友から、彼女は僕との関係をいつも悩んでいて、ずっと相談をしていた事、その詳しい内容を聴いた。他人に相談していたことや他総てに無性に腹が立ち、悲しくて、頭がおかしくなりそうだった。一番悲しかったのは、客観しようにも、唯ゴオゴオと風が唸るばかりの心を抱えた"自分”だった。自分の中でのとりあえずの決着の付け方も判らなかったし、僕はとうとう誰にも相談出来ないまま月日だけ重ねていった。

“どうにもならなさ” を静かに抱いて真面目に学業に勤しむ様な利口な僕ではなかったのだ。自暴自棄になり、毎晩の様にほっつき歩いていた。たまに同級生の家に遊びに行っても話はまるで合わず、次第に軽音部室でも居場所がなくなってきていた。その頃、仲が良かった奴が又、引っ越してしまった。同級生は皆子供に思え、通学は益々苦痛となった。

授業を抜け出して、よく多摩川の土手に寝転んで、ハイライトを吸いながら空や川を見ていた。

デパートで服を万引きをして補導された。電車のキセルや映画館やライブハウスの忍び込みはエスカレートしていった。街では喧嘩ばかりしていた。そしてとうとう、以前から睨み合っていた朝鮮学校の生徒から14で酷いリンチを受けた。折からの単独行動が仇となったのだ。

相手が4人では到底かなう筈がなかった。分倍河原駅から近くの公園に連れて行かれる際、何人かの大人とすれ違った際「助けてくれ」と心の中で叫んでいた。「狡いぞっ。サシでいこうじゃないか!」と言ったものの「ウルせえんだよバカ」の一笑で、無抵抗なまま殴る蹴るされた。蹴られた尾てい骨は未だに痛む。大量の鼻血の味を覚えているので、未だに不図、血の味にフラッシュバックする時がある。リンチ間、僕は朦朧とした意識の中で、又一つ理屈じゃない感覚を備えてしまった気がする。行きも帰りも、駅員は見て見ぬ振りをしていた。

親は学校の出席ばかり気にしていた。親は親で仕事に失敗し大変だったらしい。僕は何も知らなかった。知ろうとか理解しようとか思わなかったのだろう。自分のことで精一杯だった。

可愛く思っていた妹のことも何も気を使ってやれぬまま、高校2年の夏に家を出た。

 

 

しばらくして母親から電話で、隣りの彼女が結婚した事を聞いた。

相手は、通院が縁で働き出した整骨院の医者らしかった。

「寂しかったんじゃないかねえ... 良かったんじゃないかしら。」と母親が言った。 

僕は何も言えなかった。「結婚って....すごいな...もうしちゃうのかよ...」そんな感じだった。でも何となく、とても哀しい気持ちがした。

いつか会う機会があったならば、何と言えばいいのだろうか...

「そうか!おめでとうって言ってやるのだな」と自分に言い聞かせた。

 その頃ラジオからは、一日に何度かRCサクセションの歌が聴こえていた。たしか西田敏行の『もしもピアノが弾けたなら』も聴こえていた。

 

 

僕が育った実家は既にその場所に無い。

紫陽花の株がどうなったのかも知らない。

隣りの彼女のその後も知らない。

昔、あの町には田畑が点在し、僕らはタニシを採り、カジカを刺し、トンボ釣りをした。

野原に蓙を敷き、お医者さんごっこやおままごとをした。

神社の境内で缶蹴りや泥警をして遊んだ。

川を釣り上ればオイカワやアマゴや小さなサンショウウオが居た。

あの町は見事に変わってしまった....工場や大学が誘致され、山が削られ、どこもかしこも分譲住宅が建ち並び、駅前には立派なバスターミナルが出来て、空いている土地は端から駐車場になってしまった。

そこに確かに在った山がそっくりなくなってしまったのを見るのは、何とも言えないオソロシイ虚しさを覚える。

思えばあの町に7-8年立ち寄っていない。電車で数時間で着く場所なのに、『近くて遠い町』がそこに在る。

 

この季節、どの道を歩いても、紫陽花の花が咲いているからー

ふと耳の奥で、エレクトーンの音色が聴こえた気がして。

 


 

 

            (今夜の脳内ミュージック/COLDPLAY "Violet Hill"

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44. 傘/みんな途中#7 [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]

ちょっと久しぶりの更新。
書きかけの原稿?はいくつか在るのだけれど、手を入れる気力が湧かなくて。
まあ、本日の戯れ言を思うに任せて書いてみようと思う。

出先で傘を盗まれた。否、正確に云うと “傘を間違えられた” 。
今日、ワタシは半透明の白い安物の傘をさしていた。そして、或る場所でその傘を置いた。
用事を済ませて、その或る場所で傘を探した。無かった。「傘がないっ!」(井上陽水だね)
代わりに明らかに “女物の傘” がそこに在った。派手な水色の傘だった。他の傘も1-2本在るには在ったが、それはコウモリって感じの傘で、もう何ヶ月もそこに置きっぱなしといった態であり。充分に埃を冠っていて、ずっと「ソコにそうしていたい」と訴えている様でも「誰かここから連れ出して」と訴えている様でもあり。
周りにヒトは居なかった。水色の傘の持ち主らしき女性も居なかった。それらしき女性は先に、ワタシの白い傘をさして行ってしまわれたみたいだ。
「 代わりに置いておきますネ」その水色の傘は、まさしくそんな感じだったのだ。
時間も迫っていた。ワタシは水色をさして歩き出した。

また異なる場所に立ち寄った。傘を傘立てに立てかけた。
用事を済ませてから、傘立ての前で立ち止まった。
キャリアウーマン(なんて、どんな意味かはよくは解らないけれど)っぽい背の高い女性が傘立てから白い傘を取り出していた。取り出すのに難儀していたので、ワタシは自然と手を貸した。幾つかの隣り合う傘が絡み合っていたので、焦らずゆっくり1つづつ外して、白い傘を取り出した。コンビニで売っている様な安物の白い傘だった。
御礼を言われた。
そしてワタシは照れる事もなく言った。
「あのう...代わりに、と言うのも変ですが、もしよかったらその傘とこの傘を取り替えてもらえませんか?」
計画していた訳ではない。とっさにそんな機転が効いてしまったのだ。
ワタシは彼女に背を向けてガサゴソと “自分の水色の傘” を傘立てから引き抜いた。その “女物の傘” は柄の部分がやけに長くて、見つけるのも傘立てから取り出すのも、かなり楽だった。
「はい?」
「あ、いや...実はボクは今日アナタの傘に似た傘を持ち歩いていたんだけど、出先で間違えられちゃって。いつの間にか、この傘になってしまって...」
上手く説明は出来いもので。少し笑ってごまかした。
するとキャリアウーマンもほんの少しだけ、口と目の端で笑って
「私は別に良いですけど...本当にいいんですか?」「何だかその傘の方が高そう...って言うか、私はその方が嬉しいけれど。」
さすがキャリアウーマン!呑み込みが早いし、頭も切れる。
「だったら決まりですね。はい。」そういって水色の傘を真っすぐ彼女に手渡した。
彼女は白い傘をこちらに手渡そうとするのだけれど、なにせ肩から肘から3つも鞄を提げていて、片方の手には買い物袋も下げているものだから、上手く身動きが取れないのだった。
彼女が渡そうとした白い傘は、急いで受け取ろうとしたワタシの手をかすめて、パタンと歩道に倒れてしまった。「スミマセ〜ン。」「あ、いいですいいです。」
「じゃこれで。」「あ、どうも。」お互いに軽く会釈して違う方向へ歩き出した。
彼女は傘に頓着するタイプではないのだろう。いずれにせよ喜んで貰えたのだから、それはそれで良かったと思った。

帰り道、再び雨がぱらついてきた。
普段ワタシは、余程しっかり降っている時以外は傘をささないのだけれど、今日は細かい雨がそぼ降る中、白い傘を広げてみた。
その傘は、自分が何時間か前に無くした傘と殆ど同じタイプの、つまり何処にでも売っているタイプ、そう、一番よく電車の中にポツンと忘れて置いていかれるタイプ。安物のビニール傘だった。要は、戻って来たのだ。少しくたびれた姿となって。「おかえり100円傘。」
別に100円じゃないのに、もう少し高いのに、ワタシはそのタイプのビニール傘をなべて「100円傘」と呼んでいた。そのタイプの傘は文句も言わず、そこかしこに捨てられたり忘れ去られたりしている。そして今またワタシにそんな風に呼ばれても黙っている。

ワタシは空を見た。屋根の部分というか天幕の部分が透明で、そこから薄明るい扁平なねずみ色の空が見えた。
先程のキャリアウーマンから受け取る際、道に倒れて付いたのだろう。葉っぱ屑やアスファルトの砂粒も見えた。
どうせなら、何もかも、いっぺんに洗い流す程の本降りにならないかと、勝手な事を考えた。
土砂降りの雨を望んでいた。


以前地方に暮らしていた際は、台風直後のK川を見に行くのが恒例だった。
一度、台風のさなかにどうしても見てみたくなり、その衝動がとめられず軽自動車の1BOXに(強風に転倒しない様に)重しを積んでまで、荒れ狂う川を見に出かけた。
その際に見た景色、聞いた音、受けた衝撃等は、又いつか別の機会に書こうと思う。
台風や雷や津波や他、自然災害と呼ばれる被害を過去に経験された方に読まれたら、軽蔑されてしまいそうだが...併しワタシも又、幼い頃に実家で夜中の土砂崩れにあったのだ。忘れもしない、ジンセイを左右する様な出来事の一つでもある。
それでも尚、台風や大雨や雷に “血が騒ぐ” のだ。
勿論、嬉しいとか、楽しいとか、そんな感情ではなくて...何と云うのか...もうその時点での “どうにもならなさ” に、小さなイキモノとしてイキテイル実感を覚えると云うのか...
そんな勝手な事を!と言われたとしても、そんな勝手な事を覚えて(感じて)しまうのは、もう変えられない “イキモノとしてのサガ” なのかも知れない。きっと国籍や年齢や性別を越えて、ワタシは先ず、唯のイキモノなのだ。

浅間山の『鬼押出し園』が好きで何度か尋ねたことがある。(1783年の噴火の際に)逃げ遅れて煮えたぎる溶岩にのまれたヒトの跡に立ち、一応静かに手を合わせた。その際に色んな事に思いを巡らした。付近の景観合わせ、恐ろしく、そして美しい場所であり、何年か過ぎると再び訪れてみたくなる “呼ばれる場所” でもある。
数年前に娘と訪れた際、夕闇迫る中、溶岩の凹みの奥の暗闇でヒカリゴケが黄緑の蛍光色に光っていた。娘も「絶対視たい!」と言ったので、その光を見る為にも閉園間際までねばったのだった。本来その広大な地獄絵図のような園内自体が、まるで人魂でもゆらゆら彷徨っていそうな雰囲気なのだが、薄暗闇に浮かぶヒカリゴケの妖しく儚い光を視た時は、背筋に冷たいものが走った。園内に閉園を知らせる放送が流れるまで、ワタシ達は飽きる事なく小さな光を視ていたのだった。
『鬼押出し園』に行く度に、コトバや絵や音楽や、表現等と云うもののあやふやさ、それら道具を使ってのどうしてもの伝承以外は、或る意味では個人の排泄物で仕上げたオモチャでしかないような...何とも言いがたい感覚に陥った。
実体験にしても追体験にしても具体的な事象を前にしては、得てして考えなどはまとまらなくて当然かも知れない。
幾つかの扉を開けて、幾つかの暗い部屋をくぐり、“ふっ” と引いて、ずうーっと離れて視てみれば.....ヒトビトの為だけにある “文化” と括られる世界などは、海の泡の1粒や、風に飛ばされる塵の1粒みたいなものかも知れない。

少なくとも虚栄や嘘のコトバや、お決まりのカタチやスタイル等は、濁流に呑まれたり、溶岩に溶ける前に、きっと本来ならば今日位のぱらついた雨にも流されてしまうだろう。排水溝に消えてゆくだろう。本当はみんなが知っている筈なのだ。

はてさて排水溝から下水に流れた後、それらは何処で処理されるのだろう?
行く末は川に? そして海に?
そして空に?
そして再び雨に!?

Oh No~ それじゃあ傘が必要だ!



追伸/どうだろう?勝手なもんで...
こんな天気が続いていると、傘もつぶれる程の土砂降りの雨が降らないかなーなんて...
思ってしまったりするのはワタシ一人じゃないのでは?


       (今夜の脳内ミュージック/RADIOHEAD "Pyramid Song" )

夜、海への列車/自作イラスト(一部).jpg







32. M湖の扉/みんな途中(#6) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]

唐突ですがー 自分にとってのウルトラシリーズならウルトラセヴンだ。今思うに脚本は市川森一の話が好きだった気がする。最終回、十字架磔シーンで5才のワタシが泣きじゃくったのを覚えている。台所に居た母親が寄ってきて「どうしたの」とこちらをを見つめ、笑いながらびっくりしていた。
その後の市川森一体験は「傷だらけの天使」だった。綾部情報社だ。後の松田優作探偵物語」も、永瀬正敏私立探偵 濱マイク」も、みんな「傷だらけ〜」からの活用形に過ぎない。(どれも好きだけど。特に後者第10話「一分間700円」は映像も美しく、ゲスト浅野忠信の演技でヤケに引き締まり逆に彼が主役を奪ってしまっている感有るものの、異色という意味で太鼓判!)
傷だらけの天使」ー何だか判らないけどスゴい題だなあ〜と思った。当時ワタシは小学4年生位だったと思う。日曜の夜にはまだカルピス子供劇場も観ていた。けれど黄色い帽子はとうに冠らず、いつもツバを折り曲げた野球帽を冠っていた少年のワタシは「コレが大人の世界なんだ...」と思ってドキドキしながら「傷だらけ〜」を観ていた。何故か主人公の小暮役のショーケンこと萩原健一には憧れず、乾リョウ役の水谷豊の情け無さみたいなものに興味を持って観ていた。屈折した少年だったのかも知れない。そして、とにかく貴子役のKさんが怖かった。毎回、彼女の登場シーンで必ず蓄音機から流れる音楽が幼いワタシを固まらせた。彼女の登場を毎回秘かに待ちわびていた
クラスの誰かは「なんだか怖いし、解らないし、それにお母さんが観ちゃダメだって言うから〜」と言っていた。ワタシはと云えば、やはり何か子供は未だ観てはいけない様な或る種の後ろめたさを感じながら、思いっきりその時間は釘付けだった。いつ親が帰って来ても消せる様に、テレビのスイッチをいつでも押せる態勢で観ていた。
あれ程夢中になったのは “決して怖いもの視たさ” からだけじゃなかった様に思う。ショーケンと水谷豊のやりとりや事件の結末もドキドキしたけれど、一番気になっていたのは貴子の存在だった。あの時初めて屈折した妖しさのエロスを知ってしまった様に思う。一筋縄では語れない “或る種の犠牲の裏側に貼付くの世界” みたいなものを知ってしまったんだと思う。それは例えばその後の20代に、寺山修司やザ・ドアーズやつげ義春・忠男の兄弟やザ・ベルベット〜の世界に取り憑かれてゆく過程の “初めの一歩” であったのかも知れない。 
中学だったか高校だったか、谷崎潤一郎三島由紀夫を知った時には直ぐには繋がらなかったけれど、いつの日か自分の中でそんな色んなイメージが繋がってきて、絡まって育ってきて、まるで男に媚びたアイドル的な笑顔の女性や流行歌なんかに興味が沸かない青年Aにいつの間にか成っていた。そして、気がついたらいつの間にか中年Aとなってしまった。未だ被疑者Aだけは免れてはいるけれど...

Kさんの話をしたいと思う。過去この話は一度だけ他人に話した事があるが、普段は奥の方に仕舞ってきた。ご家族や関係者の方に不快を与えてしまう内容ではないと考え、ここに感謝の意を込めて記させていただきたい。
これは何の派手な事件も起きない静かな話、ある日のほんの数時間の事だ。綾部情報社なんて所からは遠い世界の話だ。

或る日、何年か前の或る日。当時住んでいた場所から車で一時間程の隣県のM湖に一人でドライブに出かけた。当時ワタシは結婚していた。併し事実上夫婦の間は悲しいかな冷め切っていた。知人からいつかM湖湖畔で催される小さなフェスティバルに参加しないかと誘われた事があったので、下見がてら出かけたのかも知れない。以前に渓流釣りで、その上流には何度か訪れていたし、高原のなかにひっそり佇む小さな湖を一人で訪ねてみたい気分だったのかも知れない。よくは覚えていない。なんとなく先ずは木立に囲まれた湖畔を一周しようと歩いていた。M湖は、唐松と白樺の生い茂る高原の小さな湖なのだ。
Kさんは一人で湖を見つめていた。一瞬似た人かと思ったけれど、直ぐに本人だと判った。彼女に似た人などそうはいない。
季節はいつだったかな...緑が萌えるといった感じじゃなく、かといって紅葉が真っ盛りでもなかった。当然真冬じゃない。M湖は冬はワカサギの氷上からの穴釣りで有名だ。標高は高いし陽当たりもそう良くはない。真冬は釣り専用の防寒具でも着込まないと死んでしまう氷点下の寒さだ。では夏と呼べる季節だったのか?避暑に訪れていたのかな?否、違う。夏は人出が多い筈だし、その日はひっそり閑として人もまばらだった。そうだ秋だ。高原の秋の訪れは早い。
或る年の、秋と呼べる季節の内の或る日の事だったと思う。

一瞬躊躇したのかもしれないが、その時ワタシの歩はそのまま彼女の佇む側へ向かったんだ。その様な場所では歩ける道は限られている。
「こんにちは」とKさんが声をかけてくれた。ワタシは初め緊張していたとは思う。でもそのまま極自然と何となく会話が続いた。細かい内容はよくは覚えていない。天候や鳥の話をした様に思う。
唯、彼女の羽織るカーディガンの色や素材、掌の指の白さを、とても強い印象として思い出す。彼女の佇まいが其所の風景に溶け込んで、まるでムンクの絵「声」や「月光」の様に幻想的だった気がする。記憶の中で置き換えてしまった部分はあるのかも知れないが、M湖の辺りの森は何となく北欧的な姿なのだ。一歩木立に踏み込めば薄暗く、木漏れ日から陰影に富んだその辺りはゴッホクリムトの描いた白樺林よりムンクの描いた空気感に似ているのだった。
「ファンです。」なんて決して言わなかった。最近の彼女の活動は知り得なかったし、だからといって「ファンでした。」は失礼だし。唯、話の流れで自然と “Kさんの出演されていたコレとコレしか知らないけれど、この様な影響を受けたと思う”ーみたいな内容を手短に話した気がする。ワタシが話し終える迄、彼女は湖を観ていた。そして、しかとこちらを向かれて、「あら、そうですか。とても嬉しいわ。」とはにかむ様に微笑まれた。

近くに別荘が在り、お客が来ているとか言われていたと思う。二人でベンチに座って途切れ途切れの会話を交わした。湖面は静かで鏡の様に周囲の木立を映していた。「よろしかったらその辺りを散歩でもしましょうか」とあの独特の震える低いお声で誘っていただいたので、少し緊張しながら御一緒させていただいた。
突然「アナタ、何処となく寂しそうな方だからお誘い出来たのよ。」たしかそう言われた。
そんな湖を一人で訪れる人に、明るく楽しく人生総てハッピーなんてオーラを出してる人は居ないだろう。併し実際に、ワタシは “自信となる核を持てず、 だからといって其の部分を育てることを努力し続けては来なかったニンゲン” かも知れなかった帰る故郷を持っていない背水の陣のくせに、怠惰や成り行きまかせなニンゲンだった。幼い頃から集団が苦手で、ヒトが多い場所では貧血で倒れる様な弱い部分を抱えていた。歳を重ねても、好きな事は夢中にやるが嫌いな事には丸っきり白けてしまう我が儘なヒトだった。だから何処に居ても誰と居ても “ソツなくこなす” とか、決められた一つの作業をみんなで成し遂げるとかが非常に苦痛なヒトだった。自分は「生まれる時代や場所を完全に間違えたんだ」と、子供の頃から感じてきた。どんな時代もどんな場所も、そんな我が儘な奴は端っこに生きるしか道は無いのに、幼い頃から「ココじゃない。ココじゃない...」と思ってしまうワタシが居たのだ。それに昔から、その様な人工的なモノが何も無い場所で、一人でなら何時間でも過ごせるヒトでもあった。それがKさんが仰る「寂しそうなヒト」にどこかで繋がる事ならば、そうなのかも知れない。
だから突然彼女にそう言われても、少しも嫌な気持ちはしなかった。彼女がワタシにそう言ったのは決して嫌みとかじゃなく、おせっかいでもなく、或る意味は好意を込められたコトバだと、その時に自然と表情や静かな口調から伝わってきた。今思うと、他人に対して少なからず持ってしまうある種の警戒心や邪念の様なものを一気に解いてもらった魔法のコトバだった様に思う。
曲折を経て生きた分だけ、誰もがその様な魔法のコトバを持てる訳ではないと思う。普段から深く自らの内側に降りてゆく勇気がある者が発する、目には見えない世界の積み重ねから発酵されたーそうきっと天然酵母のガスみたいなものかも知れないと思ったりする。
いつの時も、意図的に頭で話したコトバでは、何の奥の扉も簡単には開かないものだ。ヒトとヒトだけの話じゃない。子供にしたって、猫にしたって、オトナが得意になって話すコトバ以上に、鋭い他の感覚を働かせているもの。いつの時も、人種や世代や職業や、幾つもの壁を一気に超えて、たとえ一瞬でも異なる心と心が触れ合えるのは、きっと頭脳から出て来たコトバからではないだろう。現実は、どんな社会でもソレナリニ泳いでゆく上では、両方が必要なのは勿論だろうけど。


初めの内ワタシは「これは何という巡り合わせなんだろう...」と「傷だらけの天使」を思い出していた。「砂の女」を思い出していた。何故ならワタシはその二つと、そう “ムーミン・トロールの声の人” としか、彼女のことは知り得なかったから。でもワタシには充分過ぎた。この3つの刺激がどんなに自分の人生に影響を与えたかを、其所で酒でも酌み交わしながら語りたいくらいに、内心は興奮しそうだった。でもそんな話はもうしなかった。もう今この時に、そんなワタシの思い等はあまり大切じゃないと悟ったから。それに、薄暗い森にさす木漏れ日や、木々の枝葉の揺らぎ、湖面を吹く風も、鳥のさえずりも、久しく忘れていた感覚をゆっくりと思い出させてくれたんだと思う。
その頃ワタシのセイシンは色々な問題の “出口の無さ” に正直参っていたし、何故かKさんも「黙って歩きたいんだろうな」と感じさせる何かを発していた。彼女から散歩に誘って戴いたけれど其所に深い意図はなくて「今この時この道を何となく一緒に歩くーそれでいいのだろうな」と感じた気がする。
(厭らしいと思われる人も居るかも知れないが)ワタシはいつからか、自分が歩いて来た道の中で次の様に思う様になっていた。「旅の途中初めて出逢った人と仲良くなりたければ、何処で生まれて何処に居たのかとか、どうしてココに来たのかとか、職業とか、根掘り葉掘りその人の日常や過去を尋ねない事。急いで尋ねれば尋ねる程に見失う。言いたい事があればその人が言ってくれる。それよりか、今、目の前のアリノママを、黙って一緒に感じて味わった方が幸せ。口ではない他の感覚のを開けた方が幸せ。何も急がない方がいいし、急いだら見失う」。きっと、音楽や本や映画、そして数々の失敗がそう教えてくれたのだろう。併し実際はその “急がない” せいで、そのまま疎遠になってしまったり、何かのチャンスを逃してしまうケースも多々在ったのだろうけど...もうこれは仕方無い。元来が市川森一調に題すれば「蝸牛人間」なのだから...

それにしてもヒトは、出逢って早い段階で直ぐに出身地や出身校や所属や、相手のバックボーンを質問して名称で知りたがるケースが多い。多過ぎるとは言えないだろうか?
きっとその理由は、その方が手っ取り早いからだろう。誰もがどうあろうと、時間や色んな決まり事に縛られているから、いつだって “何だか急いでいる” のだろう。だから言葉で、己の着たりしエリアや方角を質問して答えて貰う方が分析・判断しやすいのだろう。そうしてとりあえず安心しないと不安なんだろう。時にはワタシもその一員ではあるのだろうけど。
そうだとしても兎に角、そんな質問・尋問は苦手なのだ。困るのだ。ワタシに堂々と出来ないウシロメタサや弱さが在るからだろう。イサギヨクナイ部分を抱えているのだろう。
併し常々(『17. 嘘っぽい歌の様には』にも似た様な事を書いたが)この世の中ではニンゲンだけが、相手に短い言葉で尋ねて、短い言葉で答えさせて、聞いて済ましてしまう率が多いイキモノだと思うのだ。尋ねた本人は「済ませてなんかいない」つもりでも、そうして直ぐ尋ねる段階で、実は既にその人だけの経験と頭脳から導き出される想像力の篩(ふるい)が待ち構えているものだ。区別・区分けしてやるぞと言わんばかりに。ワタシを含め皆、時に臆病でもアリ、時に傲慢でもアルのだ。そうでなければ生きてゆけない世の中ーだからだろうか?寂しいから、早くシリアイになって安心したいのだろうか?
ワタシ達は、こうして直ぐ脳味噌で判った気になってしまい、おごってしまいがちな “ニンゲン様” な訳だ。もっと他の感覚を、黙って働かせたらいいのになあと思う。折角持っているのだから使わなければ退化もするんだろう。視覚とか嗅覚とか聴覚とか触覚etc...意識して使わなきゃ衰えるのになあと思っている。
この世界は安易な情報や愛のコトバが飛び交い過ぎて、機械音や排気音や電波やが絶え間なく、きっと鳥も魚も獣達もさぞかしウルサがっているだろうなあと思ったりする。

Kさんはまさしく自然体で “他の感覚のヒト” だった。その部分を上手くは言えない。彼女は瞬間で、ワタシという生き物の “換え玉の無い部分” を感じ取って下さり、しばし一緒に歩く...それをしてくれたと思っている。その時間ワタシを或る意味、出口ナシの世界から解放して下さった。
おこがましい物言いかも知れないが、Kさんも、近くに別荘が在り一寸散歩がてら湖を眺めていたにしても、御自分の人生の道を歩く"旅の途中" であり、そして車で1時間足らずの寄り道とてワタシも、小さな "旅の途中" だったのだ。Kさんは身体中の感覚で散歩していたのだと思う。内側にはどんなに激しい熱や、何かドウシヨウモナイモノを抱えていたとしても、独り静かに歩く道の途中だったのだ。
「アナタお時間はよろしいのですか?」と一度だけ尋ねられた。途中ワタシもKさんに同じ様に一度尋ねた。「もっと歩きたいわ。」と言われた。曲がりくねって起伏も激しいその辺りの道を、休み休みどれくらい歩いただろうか...丸太で土留めした階段がぬかるんで危なかったりした時に、黙って腕を支えた。彼女の柔らかい指は冷たかったという記憶がある。きっと一人で湖を見つめていて冷えきってしまったんだろうと思っていた。
歩きながら時折その辺りの森や湖の四季の変化、季節と季節の変わり目と感じる一日が必ず存在する話とか、その辺りの冬の厳しさの裏にだけ在る美しさの話をぽつりぽつりとしたように思う。細かい内容は忘れてしまった。
別れ際に、「今日、アナタが一緒に歩いて下さって私は幸せでしたわ」と仰っられた。とても嬉しかった。
ゆっくり「サヨウナラ。」をお互いに言って、握手して別れた。
ーそれだけの話だ。


それからどのくらいの月日が過ぎてからか正確には忘れてしまったが、或る時突然Kさんの訃報を知った。
ワタシにはもう、綾部情報社の貴子やムーミンの声の人じゃなかった。人生でたった一度だけ、或る年の秋と呼べる一日に偶然に御逢いした “M湖のKさん” が思い出された。実際、ワタシはあの時のKさんしか知らないのだった。
こみあげてきて便座に座って泣いた。
今でも不図、あの日 静かな湖を一人で眺めていたKさんを思い出す時がある。



             (只今のミュージック/KING CRIMSON "Moon Child" )

秋の街灯.jpg



23. 迷森/みんな途中 (#5) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]

 『迷森』

チェンソーの響きが止み
いつの間にか風が変わり
足下から半径200メートル辺りは
一旦、世界が停まったかの様な
濃密な静寂に包まれる

木漏れ日に汗を拭き
喉を潤し
目を細め 耳を澄ます
労働者達は煙草に火を点け
改めて 
切り倒した過去と繰り返す未来を
黙って見渡す

革手に付いた松ヤニが
焦がした飴菓子の様に香る


昨日 この森で
遠くからやって来た老人が
背を向けて腰を降ろし
紫煙と一緒に言葉を吐いた

森は深く 我々は浅い
迷わずに 行けなどは しない
迷いながら 行くが 良いだろう
オマエの森を
行くが 良い
それしか 無いだろう
それしかー


間引きに依って開いた空の穴に
途切れ途切れ 昨日の言葉が
この耳の後ろを伝い
今ゆっくりと昇ってゆくのを
一羽の猛禽が視ていた


後ろの方から 鳴いている






 2005年の作を今年改訂。
地方の山間の村に暮らしていた頃や、旅の途中には、林や森の中で見知らぬ人と話す機会が多々あった。
たわいも無い天候の話から始まったり、連れていた犬や持っている道具の話から話始めて、
その内に面白い話が聴けたり、思わぬ展開に成ったり。忘れられない出来事も幾つかある。
けれど、そんな偶然の出逢いは長い年月の中のたった “幾つか” なのであり、殆どはたわいもない話で互いに深入りは避けて
「それじゃあ、又」とか「では、これで」とか、気が利いて「じゃ、又どこかで」なんてーそんな感じだ。
一期一会なんて、四六時中みんながみんな朝から晩まで念頭に置いて過ごしているわけじゃない。
ワタシだって人に会いたくて話したくて其処に居たわけじゃないし。
どんな方であれ老若男女、(其処で暮らしているわけじゃないのに)わざわざ森や林に入るのには理由がある。
虫取り、山菜採り、植物採集、キノコ採り、バードウォッチング、写真や写生、狩猟、散策や散歩、不法投棄や自殺って場合もある。否、本当にあった。
それでも、随分話し込んだり、其処での出会いがきっかけで御宅に寄らせて戴いたり、その後年賀状だけでも長い事やりとりが続いたり...
ワタシは実際の蓄えを持たないから、財産といえばそんな出逢いの記憶くらいなものだ。
(記憶がいいのも、時に考えようだけど。もう少し忘れるニンゲンになりたいが、コレ性格・性質なるもの30過ぎるとそうは滅多に変わらないと聞くし...)


或る年の5月。都会から半日で行ける町の天辺。坂だらけの、場所によっては夕陽に翳るのが数時間も異なる様な山間部の村。旅の途中、T県の山の中でM.H.氏という翁と出逢った。
T県を20数日間テント担いでぐるぐる廻っていたある日の夕刻、竹林を切り開いて作った杣路の様な細い道でH氏は突如現れた。まるで忍者の様であった。小柄で手首足首をビシッと決めて農足袋姿。風貌もシチュエーションも本当に「黒影参上!」って感じだった。(杣路で山師や猟師に鉢合わせは何度も経験してきたけど、後にも先にも、あんなに忍者を思わせてくれた方はお会いした事が無い。思わずタイムトリップした感じだったな。)

H氏は先の大戦で片足を悪くされて不自由だと嘆いていた。それでも、出会った山道の先には彼が切り拓いた小さな棚田が在り、彼は其処を一人で守っていた。
彼は話し好きなタイプではなかっただろうと思う。話し上手でもなかったと思う。
ワタシの歳より少し若い息子が一人居るが、都会に出て暮らしていたみたいで...寂しかったのだろう。
いつもその心を抱えながら、小さな棚田を守りながら、最近は寝込みがちだという奥さんと、静かに繰り返しの日々を暮らしていたのだろう。
それでも、ワタシ(当時既に30は越えていたけれど)を「若くて羨ましい」と何度も言われた。

自分たちの若い頃は「戦争を中心に世の中が廻っていたからねえ」と話し出した。
第二次大戦に出兵されたのだからワタシの親より年上であることは確かだろう。
彼は、色々話すうちそして「目の前の人を殺さなければ生き抜けなかった。」「こんな足で、老いぼれるまで生きてしまった」と呟いた。
卓袱台の向こうで、彼の皺深い顔の奥にある優しいけれど鋭い目が、真っ赤だった。背後の本棚には歴史や地理や農業関係の本に混ざって井伏鱒二が並んでいた。本の題は思い出せない。
「んだが、生きて帰って来たから、こんな婆さんでも嫁さんに貰えたんじゃがね。いやいやそん頃は "婆さん" じゃなかったけんども。なあ、婆さんや。」
H氏はそう笑ってその辺りの話は短く済ます、そんな爺さんだった。
自分の話より、観光地でもなく名所名跡も無いこんな僻地をほっつき歩くコチラに興味を持たれていた。だからって質問攻めにはせず、理解しようと一所懸命に耳を傾けてくれる爺さんだった。奥さんは痛む足をさすりながらニコニコしてばかりで、小柄なH氏よりもっと小さなそれは可愛いお婆さんだった。
ワタシは行く末パートナーと、彼ら夫婦の様な佇まいが自然と滲み出る様な関係を持てたらどんなにか素晴らしい人生だろうなあと思ったものだ。


何日も本当に良くして下さった。何も御返しする物が無かったので詫びると
「長生きしてきたおかげで、アンタみたいな変わった人と会えて。それだけで冥土の土産に成るってもんだ。」なんて、ぼそっと呟く翁だった。
2回目に訪ねた際は、既に電話番号も聞いていたので突然では迷惑になると考えて連絡したのがまずかった。
色んな、本当に色んなことを用意して待っていて下さった。
土産を持参したら、気を使うなと一寸不機嫌になられた。が、それが彼だった。
彼は遥かに目上でありながら決して虚勢の無い静かな口調、静かでゆっくりな動作の翁であり、でもその静けさの奥に有る、熱い何かが未だ種火を熾しているーそんな素敵なヒトであった。
「けんど、もうこのまま行くしか無いから。あんなネコの額みたいに小さな田んぼでも、一回休んじまったら終いじゃからの。繰り返してゆくしかない。んでも、誰に指図される訳じゃナシ、どうにかこうにか婆さんと二人食ってゆけりゃあそれでいいんだから。お天気ばっかしゃあ誰の言う事も聞いちゃくれんしのう。焦っても焦らんでも、まあどうにかこうにか、フフ...気楽なもんよ。」こんな風にも言ってのける素敵なヒトであった。
殆どニコニコしているだけの奥さんに背後から「何言ってんのよ...」と小さな声で言われても、黙って口をへの字にしてそっとほくそ笑む少年の忍者の様なヒトであった。

初見からおよそ9年間、ワタシは彼への賀状に沢山の文字を書き込んだ。
目が悪いと聞いていたので、あまり小さな文字では読みにくいだろうとは思ってみるのだが、彼への賀状にはつい書き込んでしまった。
H氏からは毎年一度も欠かされる事無く、元旦に「またお寄りください」とだけ直筆の賀状が届いた。同じ様な絵柄入りの年賀葉書に同じボールペンで同じ筆跡で。
ワタシはその葉書の余白とどんなに会話して来ただろう...
もしもー互いがもう少し近くに暮らしていたら、ワタシは人生の行き詰まりに何も見えない時に彼に会って、何か作業の手伝いをする代わりにあの卓袱台でごちそうになり、お茶をついでもらいながら...
否、きっと深くは話せないだろうし、この現実の人生に「もしもー」は無いんだよね。(あ〜何書いてるんだか判らなくなってきたぞ〜)

なのに今年は賀状を出していない。
3年前、とうとうの離婚や、再びの上京の報告を(住所移転を知らせる為に)葉書で送ったところ、H氏からの賀状は、新住所つまりココへは届かなかった。勿論以前の住所にも。
ワタシは上京と同時に年賀状を(くれた人に返事は書く様にはしてるけれど)自分からは誰にも書かなくなっていた。
H氏からの賀状を待った。たとえ短い言葉でも、彼の一筆にちゃんと返事を書きたい...と思っていた気がする。
でも届かなかった。
なんだか彼から叱られている、それも黙って静かに、溜め息をつかれている...そんな気がして。
自分から何と書いていいか思い悩むうちに、季節はどんどん変わってしまった。
そして今年。やはり届かなかった。
ワタシからも書いていない。どうしても書けないのだ。
最後にお会いした日から12年程が過ぎようとしている。訪ねる勇気もこの重い足腰が邪魔をする。


実際にこの国の森で、ワタシは私の旅の途中で何人か忘れられないヒトと出逢ってきたけれど、深く胸に住んでいる翁は忍者のH翁かも知れない。
彼に恥じない様な生き方はしてこれなかったワタシだし、今もしていない。
けれど、じたばた足掻きながらこれでも生きている。

Hさん。奥様。どうぞ、どうぞ元気で居て下さい。
どうぞ お茶を/自作イラスト(部分).jpg


(只今のミュージック/TOM WAITS “Time”)

19. Mr.K’s Bagel/みんな途中(#4) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]

この週末、今年初めてK氏が我がアパートに一泊された。
久方の乾杯に話も弾み、途切れず。枝葉、枝葉。
なんだかんだと朝ぼらけ外の世界が白む迄、くっちゃべってしまつた。

「そう言えば、前に泊まった時は反対側を枕にしてたなあ〜。」
K氏は、ワタシが何も覚えていないそんな変化を覚えていた二歳上の“東京のパソコン師匠”でもある。(以前暮らしていた地方には、二回り年下の“地方のパソコン師匠”が居らす。)
新聞も購読せずテレビも持たないワタシに、昨今の世間の様々な事情を教えて下さる貴重なお方でもある。
愚痴とも嘆きともとり様によっちゃとれるボヤキを、根気よく聴いて下さる貴重なお方でもある。

狭い小部屋に40も越えた野郎が二人、枕(あ、うちに枕は二つなんか無いものだから〜K氏には “座布団タオル巻き” で勘弁してもらったが。)を並べ、
そろそろ横になるかーと布団を敷いてからも再び話し込んで。互いの話は尽きない。
夕べはまるで久方の修学旅行って感じだった。


知り合ってかれこれ20年来のつき合いとなる。“旅は道連れ〜”とは云え、転々と生きているワタシにとってこの様な長きに渡るつきあいが続けられたのは、一つの奇跡だと思う。
馴れ初めは...
唯一ワタシが人生で数年だけ堅いデスクワークの仕事に就いた際、数ヶ月後に入社されたのがK氏であった。そして席が隣り合ったのだ。
ワタシが演っていたバンドのLIVEも彼は観に来てくれたりした。
K氏は今日までずっと、このまがい者を見捨てずにおつきあい下さった希有な苦労人である。

ちなみにK氏の奥さんも、天然っぽい空気感を醸し出す希有な方である。
そしてかなりの美人である。お会いした際ワタシは勝手にいつも内心照れている。親友の奥さんに照れてどうするのだ、とも思うが。
以前お邪魔した際、(魚が好きなのに上京後は自分のアパートで)“焼き魚を食べていない” と言うワタシを不憫に思ってか、帰り際にさりげなく土産をくれた。なんと、わざわざ “焼いて食べ易くほぐした脂ののったホッケ” を下さったのだ。
アパートに帰宅後、開けてみた際の完璧な “ラップ&パック in バッグ !” の感動をワタシは昨日の事の様に思い出せる。
そして又なんと、その “ほぐしたホッケ” には...小骨一本見当たらなかったのだ。(小骨は見当たらなかっただけではなく、実際に一本も無かったのだった。)
ワタシは元来、魚が大好きで小骨を除けるのも苦労と思わない人ではあるけれど、コレには感激したものだ。
「あの美人の奥さんが、か細い指をホッケの脂まみれにしながら...」と、ワタシが思ったかどうかはヨシとして...
色んな意味(どんな意味?)でK氏を羨ましく思いながら、その “ほぐしたホッケ” をどんぶり飯にのせ(一寸わさびも盛たっけかな?)醤油をかけてパクついた美味さは忘れられない。
締めは(お茶がなかったので、たしか)熱い白湯をかけてサラサラと戴いた。

(あれ? いつの間にかホッケの話?ーじゃないんだけど...。 いかん、早急に戻さなくては!)



今回ワタシは彼に連絡はせずに休養していた。
この冬は何回か互いの都合で呑む機会を逃していたし、いつだって“もうあかんっ”と弱音でも吐けば飛んで来てくれるだろう友だし、併し今直ぐパソコン操作についてたしかに教わりたい事柄もあった。併し今この身の不自由さでは、自分でも笑い飛ばす事も出来ない状態では、まだかなと思っていた。
何故ならそれなりにでも楽しく呑めないし。
もう少ししたら、誘おうと思っていた。「今回はうちで呑まない?」と。
ところが、K氏はここ数週間の当ブログも仕事先の昼休みに読んでいてくれて。何も余分な事を言わず見舞いに来てくれた。
「土曜日に仕事帰りに行っていいかな?」とだけメールが来た。ワタシは直ぐにOKとだけ返信を送った。
こんなで済む関係はK氏だけだ。余分な事で疲れない。
余分な気遣いや遠慮の仮面を被った、つまりは虚栄や羞恥のココロに、忙しいフリをするヒトビトは結構多い。
忙しくして何処迄行ったって、狭い井戸を嘆いているのは御自分なのに。(話が逸れた)
K氏は忙しいのにワタシに会う時間をつくってくれる。純粋に嬉しい以外何ものでもない。
男同士の汗臭い友情も苦手だし、女同士の友情なんてのも脆そうで信じがたい。
余程タマシイが似た者同士なら男女間の友情も有り得るのかも知れないが、20年続いたケースは無い。
やはりリズムやペースの相性や、言葉に尽くせぬ “共有出来る感覚” がある(思い込める)かどうか、だろうか...

朝食はK氏の手土産の “生地の詰まったもちもちのベーグル” を食べた。美味かった。
明けた本日も、話は行きつ戻りつ横っ飛びで枝分かれして。
途中何度となく「アレ何の話だったっけか?」
「いいんじゃないか?思い出さなくても。」
「う〜ん。思い出せんっ。いいか別に〜」
「いい、いい。」(笑ごま)ーこれは単なる年齢的な問題なのか...
特にワタシは話の途中で頭の中が真っ白の空洞になる事が、最近富みに多くなった気がする。かなりヤバい。
そんな時いくら待っても頭の中は本当に空っぽで、ヒュウ〜と風が吹き抜けるだけ?(俺はディランか!)

思い返すとー
夕べはヒトの闇の部分や、社会の不確かさというかー夜更けに従って恐ろしい話が多かったけれど、明けて本日は面白くて泣ける話が噴出した。面白くて泣ける、ってのは最高だよね。
昼食も摂らず煎餅やチョコレートをつまみながら、話は尽きず。枝葉、枝葉。広がる、広がる。
結局、K氏は夕刻に帰られた。
以前からの今日の予定は変更させてしまったんじゃないかなぁ...

しかし色々教わり勉強になったし、まんず楽しかったぜ。
望む望まず互いに背負わざるを得ないものが大きいけれど、前向きにいきやしょう!
そして互いに弱っちい腰だけど、騙し騙しどうにかいくしかないっしょ!ねえ。
あいにく、この身しか持ち合わせがないんだからー


またアパートを訪ねておくれよ。
次回は元気になってるだろうから、得意な中華でも作るさ。
奇麗で純粋な奥さんを大切にね。全くをもってウラヤマシイです。
やっぱり独りになってみると寂しいもんだよ。うん。
じゃ。 ありがとうベーグルを Mr.K。

           *


ここ連日二人の友人がそれぞれ一杯話をしてくれたな〜
ワタシも一杯話せた。
自らの足りない何か(頭脳や、経済や、栄養や、勇気やetc.)も改めて思い知ってしまったけど...

とりあえずは、又明日は通院だ。
そして又ワタシはこの箱庭で、ギターと文庫とパソコンが友の日々に戻るーとりあえず。


       (今夜のミュージック/ TOM WAITS  "Big Rock Candy Mountain" )

自作オブジェ金顔.jpg
    





15. 光の渓の夢/みんな途中(#3) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]

夢を見た。

TSUTAYAで借りた同じ映画を、静かな感動のあまり2回続けて観た。
つまり観直した。
やはり2回観ると、一回目で気づかなかった事に気づいたりするものだ。内容と自分の過去の出来事が重なるところがあり、色々考えたりした。
そして、疲れてそのまま寝てしまった。敷いた布団の掛け布団の上で。ヨダレを垂らして。


そして夢を見た。
映画と関係ない夢。
舞台はN県の渓流。標高は1200m位の岩魚狙いの沢。
昔よく通った穴場の沢だ。
初めて世間に発表してしまうけど...
なんとここには、絶滅種とされるカワウソが居る。
現在もひっそりと生きている。はずだ。
「はずだ」というのは目撃・観察したのがもう何年か前の事だからだ。
その時の事は詳しくノートに記してあるが、そのノートは現在は手元に無い。
けれどー
ワタシに気づかず底の見えぬ滝壺にくねりながら消え、再びくねりながら浮上し水から上がってきた彼(彼女?)の口には、しっかりと獲物の岩魚がくわえられていたー
その映像は現在もスローモーションでハッキリと脳裏に浮かべることが出来る。



話を戻そう。
夢には、現在は遠く離れて暮らす娘が、獲物を狙う真剣な面持ちで現れた。
夢の中の娘はいったい何歳ぐらいだったろうか?
モンベルのマゼンタ色のチャイルドパーカーを着ていたからまだ6歳位か...
あのパーカーは随分長い期間着ていたが、小学校に上がる頃に丁度つんつるてんになったんだ。

夢の彼女は相変わらず弱音の一言も吐かずに、瀬を渡り岩を巻き釣り上っていた。
そして何処かの釜で岩の陰から大きな尺近い大物を釣り上げ、ぐりぐりの黒目で満面の笑みでワタシに合図していた。
あたりには、遅い春と早くも初夏の自然が混在し、そこいら中に様々な緑が展開していた。
黒や灰色の岩の間からしぶきを上げ落ちてゆく先の大小の滝壺には、深い青や翡翠色のグラデーションが怪しい程に揺らめき、
その先から迸り流れ出す幾筋もの男流女流の重なりには、枝葉様々な緑の重なりの間から降りて差す陽光が煌めいていた。
ワタシはいつしか習慣として来た"家族の食事1回分位の獲物を確保したら納竿”にならってだろうか、
腰の魚籠はそれなりに重かったが、自ら竿を降ることは一度も無く、
ただ此れより上にはヒトは住めない渓の“手つかずの自然”に、そしてそこに戯れる娘に、ひたすら視線を注いでいた。
そこでは光も、緑も、水も、みな儚く煌めき、心地よい渓風に揺れていた。
途中からはワタシは出演せず、そう、それこそ映画を観るが如く唯じっと眺めていた。
目が覚めてそれが夢だと判った時には、何だか悔しい様な気持ちがした。
「ああ確かにあの光の中、渓に居たのになあ」等と本気で思った。
リアルな夢だった...



昔ワタシは娘のオムツが外れる前から一年に数回、渓流に岩魚釣りへ、地磯にグレ釣りへ、他色んな水辺へ連れ回したのだった。
G県A川で山岳登山用の背負子に娘を入れて背負いながら、早瀬に立ちこみ釣り竿を振った事もある。
ワタシの背中で、何かに反応した娘がビトンビトンと全身で跳ねる様に喜ぶと、バランスを崩さぬ様に踏ん張るのが大変だった。釣り上げた幅広の天女魚に興奮して喜ぶ彼女の写真が残っている。
彼女はワタシが改良した彼女専用の2.9~3.6M程の伸縮自在竿を使い、4歳で既に岩魚を釣り上げていた。
石の裏に住む川虫や、堆肥の中に居るミミズなど臆せず何でも面白がって触りまくる子供だった。
地磯ではグレにカワハギにイシガキダイにと色々釣った。
餌や撒き餌用の貝や蟹の採集ではもっぱら彼女が活躍した。
救命ベストや専用の靴だけは確かな物を装着していたが、随分危ない場所へ連れて行ったと今更ながらに思う。
端的に言えば危ない場所ほど釣れる可能性が高いし、絶景なのであった。又、その様な絶景を「怖いよ〜」と言いながらも「いいとこだね〜」「凄い!凄い!」と、何か日常とは桁外れの自然の真只中に居る事を、コトバや表情でストレートに表現してくれる娘が側に居てくれたことは、自分の人生で唯一他に何も考えないで思いっきり味わえる “至福の時間” であった。
幾多の思い出は尽きないー



(やはり布団は中で寝ないとダメだね。なんだかボーっとしてきた...)

とにかくワタシは夢を見た。
意志を持ってそれなりの知識と道具の支度をしなければ溯れない山奥の渓に居た。
川の規模は違えど、名画『リバー・ランズ・スルー・イット』の世界に、娘とワタシが居た。
目が覚めて、涙が出ていた事に気づいた。
涙は未だ目の端に溜まっていて、頬の辺りはガビガビしてた。(あ、それは花粉症のせいかな。)
起きて何も手に付かず固まっていたら、コレを書きたくなったんだ。

川もいい。海もいい。
水辺はいいよね。
水辺はいい。
そのうち水の近くで生きたい。
最後は水辺で逝きたい。
布団の上、ましてや掛け布団の上で...は嫌だね。



未だ眠いや。
今から二度寝しようかな。リズム狂うだろうな。でも寝たいな。
もう一度せせらぎは聴こえるだろうか...
紙幣.jpg
  


   (只今のミュージック/HOTHOUSE FLOWERS 「If You Go」)







7. トウメイなワタシ/みんな途中(#2) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]

夕べ春が来た。
この強い南風はやはり春一番と呼ぶにふさわしい。
今朝、いや正確には正午前。窓を開けたら、洗濯物の全部が物干竿の端に寄っていた。北端に。

冬の間、室内に待機させた植物達を、晩秋以来初めて外に出してみた。
受け皿から外し、たっぷりの水をやり、ついでに葉に積もった埃を洗い流した。植物も喜んでいるだろうが、スッキリさせてもらったのはワタシだ。
喩え日陰のアパートのイヌバシリの上でも、きっと植物達も「おっ?割と暖かいじゃん。」なんて思っていることだろう。
夕方には再び家の中に入れてやるから心配すんなよ。
忘れて夜遊びに出たりはもうしないんだからさ。

       *

細い葉や茎、小さな花や葉の植物が好みである。
野の日向と日陰の境に咲く植物も好きだ。
リンドウやキキョウやクサボケ、オダマキやホタルブクロやミソハギetc... 花咲く大木も好きだ。コブシやモチツツジ、桐やネムノキやエンジュや。
誰かの家の花壇に咲いた花の種が、風に飛んだり鳥の糞に依って運ばれて、荒れ地に繁殖した姿にもハッとさせられる。
矢車草の青紫やケシの紅や朱が、家も建たない駐車場にも成らない人が立ち寄らない手つかずの土地に群生している様には、何処かこの世ではない(桃源郷というよりあの世の)入り口みたいな気がしてくるから堪らない。
あと、訪れる人の減った高原の野っ原に、点々と枯れ立ち並ぶワレモコウも好きだ。枯れ色に風が吹く秋の野っ原に、固まった血の様な臙脂色がユラユラ揺れている様は溜め息が出るほど美しい。

そう...“美しさ”に触れることは人生時間の確かな財産だと思う。
これは借りてきた台詞じゃない。心からそう思うのだ。何故なら何度もワタシはそれらに依って生き延びてきたから。
「立つんだジョー!立て、立つんだ!」ーこれほど暑苦しくはないけど、まあそんな風に“美しさ”に助けられて来た。

けれど、“美しさ”なんて一言で括っても他人に依って感じ方はそれぞれ異なるもの。
ワタシの内にも、例えば大方の他人が「キレイねえ」とする物・状態を“美しい”と感じる部分も在るだろうし、「えっ、なんで?何故に?」と言われそうな物・状態を“美しい”と感じる部分も在るのだ。
何もかもそうだ。ギリギリ。
微妙で頼りない、しかし曖昧でぶっきらぼうなバランス。
ワタシはそれを抱えてどうにかこの世に生きている。社会人のフリをしている。



植物の話に帰ろう。
好きな木や花、その景色。挙げだしたら切りがないかも知れない。
だが、上記は特にそれぞれが深い思い出に重なるのだ。
思えば...ワタシの人生の周りにはいつも“野の花や気になる木”が在ったのだ。但し、「思えば...」なのだ。
その当時は、その存在や影響について感謝やイツクシムココロなんか忘れちゃっていたのだから。
(それでコレしたためてんだから。あ、別に全然...感謝やイツクシムココロなんかで書いてはいないけどね。)

“野の花や気になる木”ー
たとえその姿をホームセンターの園芸コーナーで園芸種として見かけたとしても、この脳味噌は一気にバックラッシュに襲われたりする。安全装置のスイッチはなかなか見つからない。
そして、今日のように珍しく (割りかし落ち着いたセイシンで?)ちょっとばかし丁寧に植物達の世話なんかしていると...やっぱりこの脳味噌はバックラッシュに襲われたりする。アルコールもクスリもナシにいとも簡単に、だ。

そう...気がつけばワタシは“此処ではない何処か”に飛んでゆく。
過去の記憶と現在の渇望が合わさった果てに、普段の日常生活では閉じているカーテンの向こうから現れて来る風景。想像の世界には違いないのだろうけれど...確かに其処を自分は知っているのだ。
ハッキリと光と陰や、音や匂いまでも手に取るように分かるみたいで...
ワタシは其処に立つと目眩がする。それは心地の良い目眩だ。
頭は重くない。鼻も通っている。寒かったり、暑かったり色々だけれど、腹が減っていたり、喉が渇いていたり色々だけれど...

其処ではー
葉の色も花の色も、土の色も岩の色も、水の色も空の色も、獣の色も(登場したりしなかったりの)人々の色もーそれぞれが際立っているのに、溶け合っているから不思議だ。

其処はー
旅の途中で通り過ぎた場所でもあり、釣り竿やカメラや楽器や車や鞄やを、おもわず手から離してしまった場所。
“生身のワタシ”が触れた場所なんだと思う。(これを言うと誰かに怒られるかも知れないが)「ああ...死んでもいいかな...。」と一瞬確かに捕われた場所なんだと思う。


そう。ワタシはそんな風に一瞬本気になってしまう場所に出会ってきた。
現在暮らす都会は、その意味では過去一番味気ない。絶対にココでは死にたくはない。
だからかも知れない。
そんなワタシが触れた(観光地でも名所でもない)地図にも載らない場所&人を、時々カテゴリ[旅・ひと]で紹介してゆくつもりだ。何だかそれらを言葉(文字)にするのは難しそうで時間はかかる気がするけれど。他の誰でもなく、自分が歩いてタマシイ(の様なものが在るならば、きっとそれ)が触れた場所&人(時間)を書き残したい。(という気持ちが在る。あくまで気持ち。言葉に出来るかソレナリニまとまるかはワカラナイ。)


其処はー
腐ってイジケやすく斜に構えて閉じがちなワタシが、
一瞬、“トウメイ” に成れた場所...



旅のヒト のコピー.jpg



(本日のミュージック/モグワイ"Thank You Space Expert")

4. 旗日とノラ/みんな途中(#1) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]

ワタシの働く業界に旗日は関係ない。
それを忘れていた。

今朝七時半頃、K線のK駅を降りたら殆ど人が居ない。歩いてない。
何故だ!
あら?企業ビルディングのエントランスに国旗が...
なぬ〜!休日だったのか!
く、悔しい...
通勤電車内では普段通りにー座れない路線は座れなかったし、座れる路線は座れたし。
第一、ずっとウトウトかボーっとしていて気がつかなんだ...
そうか世間は休日なのか。
未だ眠りの中の御仁も多いのだな。
暖かい布団にぬくぬくなのだな。
く、悔しい...
だいたいが休日ってのはよ〜この国全体が休日な訳でしょうが!
客商売の関わりでもないのに、なんでワタシは働かないかんのさ!
(ハイ、その答えは簡単明瞭「本当にお金が無いから」ですね)


しかし徒歩20分の道程、いつまでもイジケては居られない。
開き直り、空いてる道をぐんぐん歩いた。
だって遅刻しそうだったしさ。
道の途中に隣接した小さな公園のベンチに、
幾重にも服を着込んだ男が座っていた。
横に置いた手提げ袋には、新聞やビニール袋かな一杯だ。
きっと夕べはこの辺りで夜を明かしたんだね。

いつもこの公園で目が合う黒猫が、
男の向かいのベンチ下に居るのを見届けた。
毎朝早く、こんなに陽当たりの悪い公園に居るなんてー
「君はノラだね?」

実はここだけの話、彼女は確実に孕んでいるのだ。
腹の垂れ方がそうだ。
そして、彼女は人に虐められた経験があるよ。
その瞳は野生の眼差しというより、人を恨む鈍い光を放っている。
警戒心がとても強くて、直線的に近寄ると逃げちゃう。
いくら姿勢を低くして優しい声でそっと呼びかけても駄目。
何度か、遅刻してもいいや位にトライしたが駄目だった。
「ぼくもノラなんだけどね...」

期待するのは辞めにした。
触って撫でたかっただけなんだけどな...
結構、キッタナイ系やヨタヨタ系のノラ猫や
他所の家の飼い猫と仲良くなっちゃうワタシなのにな...
彼女、妊娠していてより過敏に警戒してるのかな?
以降ワタシは、彼女がそこに居るか確認だけして通り過ぎている。

   
どんな子猫が何匹産まれるんだろうね。
どこで産むつもりなんだろ。
今あのお腹の膨らみ方じゃ臨月は近い。
産まれてくる子猫達は、
まだまだ寒い陽気に耐えなきゃならないだろう。
全員は生き延びれないだろう。
子猫の風邪は命取りだし。この辺りはカラスも多いし。
何度も出産に立ち会ったけど、
死んじゃう子は死んじゃう。
母猫も大変だ。
子に飲ます乳が出るように、そしてその内与えるべく食料をー
あの目で警戒しながら探し出すんだね。
彼女に旗日は無いからね。

がんばれシャノアール!
がんばれ世に点在するノラたちよ!
室外機の上のネコ.jpg
  
 (今夜のエンドレス・ミュージック/Cat Power の "Metal Heart")

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