82. 平塚少女 #1/2(小銭に泣く) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]
77. もう要りませんから [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]
56. 奥へ /みんな途中#10 [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]
以前暮らした山村では、夜になるとキツネや鹿やイノシシが現れた。アナグマやイタチも時々現れた。早朝の林ではリスや野ウサギに会った。日中もキジの親子やタヌキが現れ、フクロウ等の猛禽類から渡り鳥や小さな野鳥まで、出逢ったイキモノの種は数多い。
家の食料の野菜の殆どを畑で育てていたので、自分達の生命線を守る意味で、獣対策は “静かな闘い” だった。色々と難儀した。被害対策っていうのか...そのイタチごっこを思い出すと、半分は獣の為に育てている様なものだった。
併し、現在となって思い出してみると....野生のイキモノは実に美しかった。季節毎に変わる毛波の色、姿全体のフォルム、その動作他総ては、一言で云うなれば唯ただ、美しく...それは喩え様の無いオドロキでもあった。高い金を払って動物園や外国に行かなくても、都心から車や電車で数時間の場所に、ワタシ達よりずっと美しく勇ましい野生のイキモノが今日も生きている。母国のイキモノが必死に生きている。唯、生きている。
そんな中で、山猿だけは好きになれなかった。はぐれ猿1匹と遭う分は互いの様子を窺いながらのコミュニケーションも楽しいが、何十匹という群れとの遭遇は思い出すだけで身の毛がよだつ。渓流釣りで突然下流から沢沿いに走って来たカモシカに遭遇した時や、ガサガサと揺れる熊笹の斜面の中から本当にツキノワグマの黒い身体が現れた時も、確かに “身の毛” はよだったけれど、その際は知識があったので割と冷静な自分も居た。或る程度の距離も有ったことで、腰を抜かしそうになりながらも其の自分を観ている自分も居たのだ。だが、猿に関しては何の予備知識も無かった上、度々のオソロシイ体験から、ワタシはすっかりあの “赤い顔” が苦手になってしまった。これは今後、もし申年の方がワタシに優しくしてくれた処で、そう簡単に治る生易しいトラウマではないのだ。興奮した野生の猿の集団に囲まれ威嚇された恐怖は、味わったものにしか解らない。
一回目の体験は1993年頃だったろうか...ワタシはその地で糧を得る為に木造大工を勤めていたのだが、H町の深い森の中で別荘建築中に気がつけば猿の大集団に囲まれ、威嚇され続け、かなりの恐怖を覚えた。夕刻の定時が過ぎ、辺りが暗くなるまで、20数歳上の親方と二人で現場に(釘付けというより、缶詰めというより、)言うなれば、軟禁状態だった。その土地に何代も暮らして来た親方が「彼等のこの状態はちょっとヤバい。下手に動かない方が良い。」と表情固く言うので、ワタシもつられて表情固く、きっと苦笑いを越えて「参ったな...」とかなり引きつった顔をしていたと思う。「親方...どうするんですか?!」「どうもこうもしねえ。こっちが教えて貰いてえくらいだ。」え?ええっ〜!.....まさしくそんな感じだった。
その後の或る夏の日、2回目の体験だ。同県M村にて、地図にも記されていない渓の滝壺辺りに当時の家族と涼みに出かけた際、ワタシが忘れ物を取りに少し離れた所に停めた車まで戻ったほんの15分程の間に、元妻と娘が猿の集団に囲まれ威嚇され大変に怖い思いをした。(当時は携帯電話等持たない生活をしていたので異常事態を知る由も無く)その際はワタシが戻り次第その異変に気付き、とっさに手頃な倒木を手にブンブンと振り回し、大声で吠えて暴れて見せた(魅せた?)ところ、事無きを得たのだった。それはNHKの動物番組等を好んで観ていたおかげか、記憶にあったゴリラの生態を無意識に真似た気がする。元妻は、自分達が少し動くだけで赤い顔の猿が歯を剥き出しにして威嚇して来るので、一時的に声も出なくなってしまったし、娘は初め「あ、お猿さんだ!」とは思ったものの、母親が血相変えてうろたえているのを見て、「変だな。」と思ったらしい。父親(ワタシ)が自分達の所へ近づけないのではないだろうかーと思ったらしい。帰路の車中、母親は恐怖から開放されたのか、いかにオソロシカッタかを雄弁に語りながら涙を流していたが、小さな娘はまるで泣かず、唇をきりっと閉じて真剣な顔をしていた。ワタシはと云えば「やっぱり猿はオソロシイな...」と思いながら、動悸の治まらぬ心臓を黙ってなだめていた。
他にも飼っていた中型犬タムが襲われそうになったこともある。そんな経験をワタシは計4回程しているので、野生の猿はどうも苦手なのだ。ワタシ達に一番近い哺乳類、赤い顔、モンキーが怖い...
併し考えてみれば、H町もM村も大自然ど真ん中とは言えずとも、標高3000M級の南アルプスの裾野にあり、元々は彼等の場所だ。そして、文明...否、そこまで大きく語らずとも、合理化や利便性の向上の名の元にないがしろにされてきた自給性や、イキモノ本来の食べる・寝る・子孫を増やす等の極めてアタリマエの営みの変化の末、かつては山と密接に暮らして来たヒトビトの暮らしも大きく急激に変わってしまった。跡継ぎの全く居ない森は荒れる。ひとたびヒトが手を加え管理しようとした自然は、ヒトが手をかけなくなれば、元通りに戻る訳ではない。増して一瞬で壊したものが、一瞬で癒えることはないのだ。ヒトの心と似た様なものだ。見えない所のバランスが崩れたならば、誘因はおろか原因の根本を探り、根こそぎ変えたり元に戻したり等と、そうトントンとは上手くはいかないのだ。ソコには合理主義も利便主義も効かない。どうにか折り合いをつけて、抱いてゆくしかないのだ。
かつて生活と密着していた猟をする者は激減し、山に入るとしたら渓流魚を追う釣り人か、春秋の山菜採りか、はたまた自殺者か、くらいなもので。(これは冗談ではない。ワタシは幼少期に暮らした東京の端の山と、ここに書いている地方の山で、合計4人の自殺体を見てきた。観光地図にも載らず、国土地理院の地図なら真っ白な場所で、見も知らないヒトの自死した姿を視てきた。喩え名前も知らないヒトであれ、その遭遇も又、自分の人生に強い影響を与えたと思う。そこから考える事もあるので、いずれ書きたいと思っている。)ハイカーや登山者含め、観光客は決まったルートしか通らない “短期旅人” だ。何かしらのゴミは残しても、森に於いての輪廻に参加はしていない。旅人だから見えるものはあるだろうが、逆に旅人には見えないものだらけとも言えよう。そして、生き残った数少ない猟師もどき達は県からの委託指令で、作物やヒトが被害に遭った地区のみを重点的に銃をぶっぱなすだけで、山の奥深い所での異常事態を日々の暮らしの中、ひしひしと肌で感じる者は、広い目でみても僅かだろう。
何かの折にワタシがこの様な話を地元の方に話出せば、そんな事を言ったって「仕方ねえズら」「時の流れっちゅう事ズら」等と台詞を仰るばかり、話題を変えることに努力を惜しまぬ御方ばかりだった。明確な答え等出せる筈も無いと分かっている事を、それでも唯事実として淡々と情報交換する事も時には大切だと思ったりする。まして大人がすぐ側に居る子供にしてやれることの一つは、命令調の理屈ではなく、唯暮らしていて気付いた事のアレコレだとも思う。逆に子供の気付きから教わる事も実に多いのだから。そうして視点は視点を呼ぶし、絡み合う。パートナーとも同じ筈だ。なのに大人同士は直ぐに好みで判断する。好きだの嫌いだの苦手だの...そんなレベルは大した問題じゃないんだ。黙ってこなしていれば、そんな域は越せる。自分にとって本当に大切なことを見つけたら、気が付けばそんな“好き嫌い”の域は越しているものだ。何もかもエキスにしている筈だ。良い意味でどん欲になれる筈だ。
「それは私には関係ない」ーそんな事は無いのだ。全てが関係している。或る意味では、ありとあらゆる事象がアナタにもワタシにも関係している。逆にアナタもワタシも全てに関係している。だからここは“清き一票” をダメ元で「投票に行こう!」等という話ではなく、たった1人の己の今現在の存在の全てが、山、森、川、海に繋がり、生きとし生けるもの全てに繋がって影響し合っているんだ〜と日々の暮らしの中で時に意識する事が、ニンゲンだからこそ必要なのでは?と思うのだ。ヒトは孤独を感じて内省するイキモノだが、決して自分1人では存在していない。アナタやワタシのコレ迄も、実に微妙なバランスの上に成り立って来た筈だ。鬱に陥ると、それが意識されなくなり、まるで真っ暗な世の中に自分1人でポツンと居る様な感覚に覆われてしまう。苦し過ぎて線を越えてしまえば、死んでしまったりするのだろう。
乱暴な物言いをすれば...ワタシは極端な都会の生活と田舎の生活と、両方を十数年づつおよそ同じ期間だけ体験して来た。計画してではなく、たまたま流れからそうなった。今再び、都会に住んでいると “ヒトの身体と本来の自然の微妙なバランスやサイクル“ というものを、日々リアルには感じられないことが、改めてよく解る。街のヒトが言う環境問題は、とかく卓上理論であり、購買意欲をかき立てる為の奇麗事羅列の雑誌の見出しよろしく、そのレンズのズーミングは偏っている気がする。(併しかく言うワタシとて、何処から何処へ流れようが、行動も思考もたかが知れているから、永遠に偏っているだろうけれど...だからこそ)唯、すぐ側に行くとか、暮らしてみるとか、食べるとか、話すとか、文字や絵にしてみるとか、色んなアタリマエの事がお互いに必要だと思うのだ。アタリマエの事をアタリマエと思わずに、立ち止まってみたり、ズーミングを変えてみるとか、色んな窓から覗いてみるとか。“お互い” とは、対ヒトでも対森でも海でも同じことだ。短期旅人では、都合の良い解釈しか得られない事が多いと思う。併しそれなりの小旅の充実感も知っている。第一、旅に呼ばれる心情は止められないものだ。恋の様なものだ。でも“深く刺したい・刺されたい”なら、アタリマエの事を実践しなくてはリアルは掴めないだろう。上手く言えないがワタシは改めてそう思うのだ。
太古のヒトはそんなアタリマエの生き方をしていた筈だ。多くの人がアタリマエの事をもっと大切にしたら、よりリアルを求めたら、きっと現代人以外の全てのイキモノがみんな喜ぶだろう。”スローライフ” とか “ロハス” とか、何故に看板が必要なのか?企業戦略に乗せられてる場合じゃないよ。ちょっとソコの奥さん&お嬢さん、関連商品の消費じゃないぜ。なんで先ず買おうとするんかなあ...それにしてもみんな好きだよね買い物!呆れちゃうよ...。看板でもいい、もし多少なり気になるなら、先ずは自分の内側と会話するんだよ。黙って向き合うんだよ。過去と向き合うんだよ。「誰も教えてくれなかった。」じゃない、アナタが逃げているだけの事だよ。ソレ無くしてアカルイミライは無いよ。そう思うよ。(こうゆう事言ってると、いずれ再び今度は独りで仙人の様に山に籠るんだろうな〜)
胸の内は夫々多様なものを抱えていて当たり前であり、“好き嫌い” も胸中のどこかで感じていれば良い事。ワタシも音楽や映画や服の好みが顕著だ。例えばハリウッド映画は好まない。例えばJポップは聴かない。ワンピースに弱い。蒼井優が好きだ。夏なら小豆アイスだ。ところてんだ。生クリームプレイがしてみたい。(あ、スイマセン。調子に乗り過ぎました。一寸反省。一寸だけ。)あと、絶対にポテトサラダにリンゴやミカンを入れないでくれ!別々に食いたい...だが、こんな戯言ではなく、身の回りのあらゆる事象に対して ”好き嫌い” を判断基準として、いつも口に出して出していると、そのうち自分が自分の言葉で呪文にかかると思う。そして時には大切なものまで見失ってしまうのではないだろうか? いつまでも物事を “好き嫌い” で判断している主は、ザ・自信過剰に過ぎないと思う。そっと教えてあげても「だって嫌いなものは嫌いなんだもん!」ときたら俺は呆れて引いてゆく構図だ。好き嫌いの触覚だけを堂々と掲げる者は “裸の王様” だ。王制には王制の良さもあれど、少なくともこの国は王制ではない。恋人関係も夫婦関係も王制なんておかしいだろ?おかしいよね?(はたまた脱線しまくりだ...)
(話を過去に戻そうー)悲しい事に、そんな “唯、話す” 事ーそれが出来る方は、得てして他所からの移住者の内の1匹狼的な方ばかりだった。見かけが変な奴、変わり者と呼ばれたりする奴、一見で何屋だか判らない奴ばかりだった。その内、森の奥深くに入ってゆくヒトは極々一部だった。行かない理由を挙げれば、行きたいけれどヘビが、熊が、イノシシが、鹿が怖い。ダニが、ヒルが嫌だ。蚊やブユに刺される。薄暗くて何となく怖い。忙しい。行きたいけど、そんな「時間が無いから行けない」etc... 多くの方は、自分の住居敷地内に居ながらにして感じる美味しい空気や美味しい水、多くの緑や広く青い空を求める。半自給自足的な ”本来あるべき姿とは?” みたいな思考で、”田舎暮らし” に憧れる。良い頭で描いて飛び込む。それでも、少なからず過去のしがらみを断ち切って実際に移住に踏み込んだ人達は、或る意味では勇者だ。憧れるだけなら誰でも出来るのだから、何にしても実際にやった者は勇者だ。実行者は頑張り屋が多い。だから、いざ笑えば皆さん笑顔がいい。シワがいい感じだ。味のある顔をしている。男も女も味のある顔は素敵だ。その後の生活が過去に思い描いていた理想と大きくかけ離れていたり、夫々の悩みは必ず抱えていたとしても、自らの意志で思い切って人生の舵を大きく切った者には “或る潔さ” が滲み出ている。或る意味で “捨て身の孤独” の匂いがする。それって悪いもんじゃない。むしろイキモノっぽくてイイ。顔や手指には必ずイキザマが出てしまう。その造りや皺の話じゃない。立ちのぼるオーラの様なものだ。誰からもそのヒトなりのオーラが出ている。オーラが魅かれ合い仲が深まったりするのだと思う。気を付けていても無駄だ。それは長い積み重ねが滲み出てしまうものだから、化粧や仮面ではコントロール出来ないのだ。
自分達の飲み水の水源を実際に見てみたいとか、歴史に消えてしまった(直ぐ近くについこの間迄ヒトが息づいていた)廃村を訪ねてみたいとか、道無き森を行ける所まで探索してみたいとか、動機はどうあれ実際に行動してから考えるーそんな者は “変わり者” と見なされるか ”暇人” と呼ばれるかどちらかであった。世間は狭く、田舎もソレは同じ、否、田舎の方が他人の厳しい目がそこかしこに潜んでいる。或る意味田舎とは、つげ義春の『ねじ式』の目玉の看板だらけの絵みたいなものだ。自分から知らせないのに、ワタシの行動なんて直ぐに知れ渡ってしまうのだった。(実に怖いよ、田舎の他人を観察する目は。例えば...車で30分のホームセンターで買い物後に、他家の奥様と仲良く話そうものなら、それはワタシ自身が忘れてしまう位の事なのに、数日後には何故か元妻から「〜さんと随分仲良く話してたんだって?」とニヤニヤ尋ねられて、逆に妙にドギマギしてしまうーなんてのが田舎のオソロシイところの一つなのだ。例えば、最高の天候条件の或る日、仕事を早引けして自宅とは逆方向の溪で釣りをした後、夕闇迫る県道を時速60キロ位で車を走らせていると、数日後には元妻から「この間、変な時間に〜の辺りを走っていたんだって?」と尋ねられ、「え、ソレ話したじゃん。〜川に釣りに行って来たんだよ。釣って来た魚、食ったじゃん!」「そうだったっけ?」等という始末。何処に居ても悪い事は出来ない。嗚呼、話が変わってしまった...苦笑。)そんな時間の使い方は、「あいつは変」で、「暇だから〜」と見なされる。みたいだ。否、見なされた。(苦笑...)でも別にいいのだ。“そこら辺の他人にどう思われ様が知ったこっちゃないセイシン” で行かなきゃ、自分のジンセイは歩めない。『49. 黒いサングラスはもう要らない(2/2)』でも記したけれど、誰でも理解者と思い込めるヒトが1人でも居るならば、どうにか生きてゆける筈だ。問題はお互いの折り合いだ。メリとハリだ。
そう云えば...ヒトの話を聞いていて、いつだってこっそり溜め息が出てしまうのは「時間が無いから出来ない」という言い訳。其処かしこで耳にする。ワタシも言ってしまう時がある。で、いつも思う。“時間は作るもの” じゃないだろうか? そいつは ”出来ない” のではなく ”やらない” のだ。自分のジンセイ時間の近いところの管理は、他でもなく自分がしている筈だ。会社に指示されようが、家族に合わせようが、"自分が決めてそうしている” のだから。“したくてしている” のだ。“やらない” のも自分だ。その道を選んだのは自分だ。なのに現実には、ここを間違える甘ったれが実に多い気がする。ここを間違えるから、自分以外に責任転嫁したり、争いの元に成る。今日も世界の何処か、お隣りご近所で、大小の差はあれ戦争が勃発している。原因の一つはココに在ると思う。
こっそりと誰か大切なヒトに、時には「仕方無くてさ〜」なんて言い訳をしたっていいだろう、許してもらえるならば。そんな苦しい胸を少し告げ合い、それで深まる共感・培う関係もあるだろう。けれど "総て己が選んだ道である” その事を自分自身が忘れたらアウトだろう。 ジンセイは一回こっきりなんだ。光陰矢の如し。歳と共に時間の経過はどんどん早くなるんだ。ワタシだって思い切り甘えたい。損得抜き、虚栄も羞恥も脱ぎ捨てて、どうせなら後先考えず甘えてみたい。そんな温かい胸があるならば。でも甘えるのは布団の中だけがイイ。他人のせいにする責任転嫁の甘えは、ステキな何をも産まない。冷静さが有ってこそ、冷静さを潔く脱ぎ捨てられる時も在るのだと思う。でもでもでも、やっぱり時には無防備な迄の ”不冷静さ”(凄いねコノ言葉。笑!)もなくちゃ....そう、生きている甲斐も無いしね。ケースbyケース。メリとハリがいい。
*
犬のタムや娘と道無き森を無計画に歩き回る時、思わず強い何かの力(気)を感じてしまう様な巨樹や、ひっそりと可憐に咲いた草花に出逢う歓びは大きかった。観光地図に無いお気に入りの場所を何カ所か持つ事は、生きてゆく力になる。ヒトやヒトが作ったモノの見当たらない風景の中で、思いっきり底の方から呼吸が出来た時、身体中の細胞が声をあげているのを感じる時がある。其処には、販売機も椅子もソファもテーブルも、まして遊具等何一つ存在しない。だが、娘は行きたがったし、いつだって「そろそろ帰ろうか?」と呼びかけても、粘りに粘るのだった。保育園での目つきとは別人の娘がソコに居た。まあ本人は『もののけ姫』を観てからは、ヤックルに跨がったアシタカ(男の子だね...)に成り切っていたーだけのことだが....(泣笑!)凄かったんだから、あの映画の影響は。長い間、娘はダンボールの筒で作った鞘を背負って木の枝を振り回し、ワタシが竹と凧糸で作った弓を肩から下げて、大人には見えないヤックルを連れ歩き....それは凄かったんだな、長いこと....。完全に「負けた」と思ったよ!
きっと、子供はテレビが好きで仕方無いーのではない。子供がゲーム無しでは生きれないーのではない。その様に大人(親)が仕立て上げるのだ。 昔、知り合いに「私って何も無い所って駄目なのよね。」という女性が居た。「キミの言う"何も”って何?」とは尋ねなかったが、このヒトには絶対に近づけないと思った。「きどってんじゃんねえよっ。」と思った。それ以上仲良くしている暇は無いと思った。消費に翻弄され、いつも化粧仮面を被っているヒトは、ワタシのエネルギーを吸い取っても、パワーをくれる事は無い。ギブ&テイクが成り立たない。男女とも八方美人の調子良さにも我慢ならない。信用成らない。みんな、ワタシには嘘をつかないでくれ。嘘なら嘘で、死ぬまで騙して欲しい。ワタシも又、不器用なのだ。否、ワタシこそ、もう極端に頑なな部分と柔軟な部分と、異種混合競技が常に胸中で開催されている。それでいいと思っている。きっと壁を作って、何かを守ろうとしているのかも知れない。そうしないと、いざの時に開けなくなる気がするのだ。ここもメリとハリだ。
(話を戻そう。)一方で、荒廃してゆくばかりの渓流や森の姿に、何とも言えない気持ちを常に抱えていた。ワタシがその地に暮らし始めた1990年代から、たった16年の間に、悲しいばかりの凄まじい変貌は本当に数えきれない。地元のヒトは「仕方ねえズら」「仕方あるめえし」と溜め息まじりに呟く他は、子供達がみな街へ出てしまった静かな家に残り、狭く痩せた土地を耕しながら、ゴルフ場やレンズ工場を誘致し、ついには共有財産であった7町歩の山を東京都のS区に売っぱらった。ワタシが移住して数年後にその大規模工事は突然始まった。ワタシは組の仕事には早朝からかり出されるものの、氏子でもなかったし、ましてや共有財産は関係なかったから、何一つ知らされていなかった。何一つ知る由も無く、或る日突然、デカい音をたてて重機が動き出した。目の前で直ぐ近くの山がどんどん姿を変え、ついには消えてゆく様を見たのだ。ショックだった。実にショックだった。それは幼い頃、昭和40年代に育った土地で何年にも渡って見て来た事でもあった。「又かよ....」と思った。否が応でも受け入れるしかない目前の事実。ドウニモナラナイ事。これも又、或るリアル。
そして、共有財産の山を売って得た札束は、各家に過去のなにがしかの都合に比例して分配された。或る家は茅葺き屋根をぶっ壊し何処にでも在る木造と漆喰のコロニアル屋根の家に建て替え、或る家は屋根だけコケの生えかけた瓦からピカピカの銅板に張り替え、或る家は立派なブロック塀を高く積み上げるのだった。仲良くしていた隣りの一人暮らしのお婆さんには幾ら入ったのだろうか...縁の下が腐って多少床が抜けて開け閉めが出来なくなった押し入れを、地元出身の大工に頼んで修理していた。数日の木工事だった。お婆さん、残りのお金は子供達や孫達に少しずつやるんだと。子供5人も居てみんな出て行っちゃって、小遣いでもチラツカせなきゃ尋ねても来ないんだと。
S区は広大な土地に生えていた素晴らしき雑木の殆どを切り倒し、根を引っこ抜き、山を削り、平らにならし、赤松ばかりを薄っぺらい林の列で切り残し、他各所は造園デザイナーの描いた通りに(その土地に等生息していなかった)白樺やイチョウを植えた。何年かに渡っての工事中、その一部始終を目にする事は胃が痛くなる様な思いがした。大木がどわーんどわーんと倒される振動を感じる度に、言葉に成らない怒りに似た何かが育っていった。テレビや本で得る環境破壊等の情報より、或る生々しいリアルが其処に在ったのだ。併しそれは同時に、ワタシ自身が「オマエは何処から着て何処へ行くのだ?」と、まるでゴーギャンの大作の題名そのままを己に問うことでもあり、きっとその問いは、今もこの身体の中を止め処無く流れている。
直接的な被害の話をしよう。禿げ山となった土地を日々こねくり回すブルドーザーの舞い上げる土埃が、700メートル程離れた我が家の家の中にまで飛んできて閉口した。洗濯物は茶色くなった。窓が開けておけない日々が続いた。我が家はその現場より南に位置し、そこから約2キロ先は標高差100メートルのフォッサマグナの断層、その間は地下水の道があまりに深く、別荘も建たない森だった。7町歩の山が消え、追いやられた動物達の殆どがこの森、つまりワタシの家の目の前から始まる森に逃げて来たのだと思う。この大工事が始まって以来、冒頭に書いた様な畑に於ける問題が急増したのだった。急増なんてものじゃなく、以前は問題なんか無かった。せいぜいカメムシやヨトウガの幼虫等の害虫対策に工夫が必要なくらいだった。以前は県道でキツネやタヌキが車に轢かれる等という事も無かった。そんなにトロい奴等じゃない。以前は夕方や早朝に、我が家のポストの前で巨大な鹿と鉢合わせ等という事は無かった。(鹿はデカいからやはり驚く。デカい鹿は角の分もあってもの凄く巨大に見える。こっちも固まる。急所なんか縮み上がっちゃう。向こうは背筋をピンと伸ばして固まる。鹿は必ず姿勢よく固まる。必ず睨めっこになる。揉め事にはならない。直、向こうが立ち去る。残されたこちらは、心臓の音を感じる。自分達の構図、その絵を思い返し、後で微笑んでしまう。畑を荒らされるのは堪らないが、鹿も又とても美しい。抜け落ちたツノを集めていた。)
タマムシやミヤマクワガタをはじめ昆虫・小動物の或る種の激減や、山間大型動物との遭遇機会の増加をはじめ、記憶に残る事象や事件を書き上げたら先ず一冊の本には成るだろう。そしてこの問題はどんな視点から鑑みてもワタシの能力では一冊の本に等まとめられない。いつだって、長い長い輪廻のサイクルを、ニンゲン様が大きく急激に壊すのだ。ワタシ達など存在するずっと以前からの静かな営みを、ワタシ達がほんの一瞬でいとも簡単に壊すのだ。利益を産む為に、ボタンを押したり、スイッチを入れたりで、つまりは破壊するのだ。この事を理想論だけで短いスパンで語ったり、逆にあまりに俯瞰し達観し、或は極論をぶったところで意味は無いだろう。と云うより勇気も無いし、せいぜいがこんなものだ。脱線しながらの自己確認が関の山だ。無理したって自己嫌悪が進むだけだろう。難しい。なるべく出来る範囲で邪魔しない様に生きたいけれど、近くには居たいと思う。輪廻の。
そう云えば...ワタシは天然記念物の上、この地域では絶滅宣言が出されたニホンカワウソに出逢った場所を娘以外には伝えなかった。周囲にイキモノ好きが何人か居たので、(ワタシの中の子供の部分が)話してしまいたくて仕方がなかったが、話さなかった。ニンゲンが一人でもその地に足を踏み入れないことの方が大切だと思ったからだ。独占欲も強いワタシだった。自分と娘と二人だけが、カワウソの住む溪を知っている、その 「“秘密” がいい」と思った。きっとワタシ以外にも、その溪でカワウソをたまたま目撃した者も居るかも知れない。だが、梅雨の晴れ間の早朝、未だ朝日が昇らぬ頃、川霧が立ち込める中、渓流魚を求めて車止めから何十分も無名の沢を登る者はそうは居ないだろう。居たとしても秘密を大切に生きれるヒトであって欲しい。いつだって秘密が育てるものは多い(大きい)のだ。
太古の歴史スパンから鑑みれば、ニンゲン様が中途半端に手を入れたり、管理してきた森や林は、永遠に手をかけてやらねばならないだろう。富士山麓の樹海に足を踏み入れれば解る様に、多種多様に渦巻き、絡み合い、微妙なバランスの上に成り立つ “混沌の森” にしてみれば、誰の手も足もかけて欲しくはないだろう。ワタシは申し訳ない気持ちを抱え、とても都合よく “自分だけは許してね” みたいな傲慢さを抱え、或る程度のハプニングに備えた装備で山奥や溪に分け入った。きっとニンゲンのワタシ等、そこに居る総てのイキモノは歓迎してはいなかっただろう。
けれどもその時間とは、野山で遊んで育った昭和の子供時代の延長でもあり、常日頃から肩なのか背中なのかピッタリ貼付く息苦しさを、気がつけば忘れて夢中になれる貴重な時間であった。だから時間を作っては、何度も足を運んだ。10数年の間に仕事以外で尋ねた場所の殆どは、名前等無い、地図では白っぽい場所だ。“何も無くて全てが在る”ーそんな場所ばかりだった。
ワタシは(格好良く申せば)いかにお金をかけないでセイカツをするかを実践する為に移住した様な者だったので、どんなものでもなるべく作ったり、修理したり、代用したり、応急処置の連続でごまかしたり(ごまかしが多かったかな?)そんな姿勢で長らく生きていた。勿論、富良野麓郷の黒板五郎の影響は大きかった。が、元々昭和40年代の東京の端っこの田舎に育った自分は、実家が貧乏だったのが幸いして、そんな “創意工夫ごちょごちょ作業しながら暮らす” 事が、極普通の事であったのだ。『北の国から』は、ロックバンドに明け暮れ “乱暴なセイシンで乱暴に暮らしていた” ワタシに、新鮮な風をくれた訳ではなかったのだ。単に “思い出させた” きっかけに過ぎなかった。
そして今は何故だか東京に暮らしている。いつまでも居るつもりは無いが、さしたる予定も無い。オソロシキ無計画。大敗から退廃の道か?生産すりゃいいってもんじゃない事は解っている。生きる事自体の罪ばかり見つめていても始まらない。併しこの旅はとっくの昔に始まっていて、気付けば半分以上こなしてしまった。やはりワタシは少し生産もしてゆきたい。育てたい。何を?......それは愛? 何言ってんだか....歌謡曲じゃあるめえし。
*
例えば絵を描いたり、文を書いたり、歌を歌ったり、舞台で演技したり、釣りをして獲物を捕ったり、家をセルフビルドしたり。又は自然や環境について、己の排泄や食事について違った角度で考えたり。そんな行為は決して素晴らしいことでも大それたことでもなく、本来は御飯を食べたり、身体を休める為に寝たり、本能として異性と抱き合ってまさぐり合ったり、或る見方をすればそんな行為と何ら変わりはない様に思ったりする。何の為でもない、唯そうやって、そいつが生きているだけ、人生時間の或る過ごし方なのだ。
総ては唯、生きて、いずれ死ぬその時までの時間を過ごしている。お金持ちも貧乏人も、どんな肌の色のヒトも、男も女も中間のどこかのヒトも、何処の国のどんな家庭で産まれどんな道を歩こうが、イキモノは皆生まれた時点で “死への旅” へまっしぐらだ。道がどんなに曲りくねっていようが、己のゴールはその身体が消えて無くなるその時であり、時間軸にのっとって進んでいるだけだ。後戻りや、“もしも〜” は絶対に無い。
ワタシ個人が森や海について考えたり、何かしたところで...等といじけた考え方は持っていないし、かといって一切あらゆる集団や運動に加担するつもりはなく。もし課題を掲げるとしたら...素直に己を開放して向かってくれるヒトには、素直に開放して向かうだけだ。あえて掲げる事でもないのに課すのは何故かと問えば、虚栄心や羞恥心にまみれた過去の自分が小さ過ぎて、結局は損をしてきた気がするからかも知れない。
柔軟な開放。意味を求めず味わう。樹や魚や蝶や花がそうであるように、また、ワタシ達の胃腸や目や耳等それぞれの器官の働きが本来はそうであるように、それは本当は極々当たり前のことだと思う。そんな当たり前の事が一番難しいなんて...。 ワタシは死にそうになったり、死にたくなったりして、帰って来た気がしている。どうにか此処で立っている、弱くてだらし無い唯の中年。だけど何故か、どうしても好きな絵や、音楽や、ヒトが、確かに居る。けれどもそんな好きなものやヒトや “〜の為に生きる” なんてのは安っぽいドラマの台詞であって、ワタシは私の為にしか生きれない。ワタシがワタシの為に真っ直ぐ生きる事で応えた方が、きっといいんじゃないかと思うし、本来はそうとしか出来ない気もする。少なくとも努めるべきは其処だと思う。
素直に開放。対応。向かい合う。唯生きる。ーそれはニンゲン以外が極普通に、当たり前にやっていることなのに、なんてワタシ達は不器用でひねくれているイキモノなんだろうか... 。「ココロという厄介なものが在るから仕方無いよ」ではなく...それが在るからこそ、諦めたくないよね。
相手が恋人でも、夫でも、妻でも、魚でも、鳥でも、樹でも、そして自分でも、少なくともその相手を大切だと “感じる” ならば出来る筈だ。皆、稼いだり、化粧したり、悩んだり、泣いたり、結構自分自身を大切にはしているのだから、それくらい出来る筈だ。己が今後もイキルならば、出来る筈だ。
今回、以前暮らしていた地方の山村付近の話を、何故書き出したのだろう?何を確認したかったのだろう?きっとこれも又、唯この様にしてジンセイ時間を潰しているだけの事なんだろう。選んでそうしている訳だ。
ワタシはこれから何処へ行くのだろう....
*
走って通り過ぎず、立ち止まってしばし佇めば、ほんのちょっと解る。解った様な気がする。併し、解っちゃいないんだろう。ノロくていい。もう別にいい。溜め息も出るが、又元気にもなる。結構強い。弱くて強い。
同種族、同業者、クラスメイト....井戸の大小あれ、横ばかり気にしても不幸に成るばかりなんだ。茶色や緑色や青色を気にしていたい。赤い色は嫌でもココに在るから。
キミもそのまま、群れず、独りで触れれば解る。孤独から逃げても始まらない。ヒトは永遠に孤独なイキモノなんだ。孤独をしっかり抱いてゆく時、初めて愛を知るのだろう。身体で、そう思う。
何にしても金を払って表面を撫でてたって、リアルを掴む前に時間ばかりがどんどん過ぎてく。
掴みたければ、虚栄なく、素直に。もっと素直に。素直に奥へ。
陽水の『夢の中へ』じゃない。『奥へ』だ。己の森の奥へ。
どうせアナタもワタシも、いずれ尽き、朽ち果てる身なんだ。
奥で消えたっていいじゃないか。
(只今の脳内ミュージック/TOM WAITS "All The World Is Green" )
54. 硝子のブイ /みんな途中#9 [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]
50. エレクトーンの音色/みんな途中#8 [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]
少し前までなら、雨の日は部屋の中に取り込んで、カーテンレールや押し入れの枠なんかに干しておけば、そのうち乾いたからさ。やってみた。
そしたら洗濯物がなんとなく臭くなっちゃった。
“部屋干ししても臭くならない”って洗剤の箱に書いてあるんだけど!?
もう部屋に取り込むのは止めようっ!
この季節ならではの花、紫陽花のピークも過ぎたかな?
毎日歩く道のコースを変えたりしても、どの家の庭先の花もそんな感じ。茶色くしおれてきてる。湿度が高すぎるのかな? あ、ついつい花って書いちゃったけど、アレ紫陽花の丸く寄り添って花みたいに見えてるのは、正確には「ガク」なんだよね。“装飾花” って呼ぶらしい。子供の頃、大人から「ありゃ花じゃないんだよ。」そう説明されて「なんか変なの〜」って思ったな。でも、わざわざ会話で「紫陽花のガクが奇麗ですなあ〜」なんて言わないやね。まあ、そんな知識は知っててどうなるってものじゃないけどね。
渓流なんかに出かけて沢沿いにひっそり咲く野生の紫陽花の仲間に出逢うと、必ず思い出すんだ。誰かから教わったその話を。「花じゃないんだっけ...」って。
紫陽花にも沢山種類がある。みんな咲き方が全然違うし。生えている場所の環境、特に土壌の成分に依ってだろうか、微妙に色も違う。水色・赤紫・青紫...いやいや、そんな陳腐な表現じゃ言い尽くせない程に、淡いトーンの違いがあって。
野生の紫陽花はどれも割りかし小ぶりで、なんて言うのかな...清楚な感じで。とても美しい。杣路の脇に咲いたコアジサイの小さく可憐な姿には、しばし立ち止まらざるを得ない。葉の薄い黄緑色と花のオフホワイトの組み合わせが、何とも言えない儚い美しさなんだ。
家の庭先に咲く大きな丸い紫陽花もピークは華々しく、何て言うか賑やかで奇麗だけど、野生の紫陽花を知ると駄目だね。目立とうとし過ぎてる感じがして。立派過ぎる。何に於いても比較するなんてことは不幸の始まりかも知れないけど、どうも駄目だね。昔、庭の紫陽花を見ながら「紫陽花はオマエの花だよ。」なんて、ただ僕がこの時期に生まれたからという理由だけでそう言った親のコトバが邪魔しているのだろうか...
植物には、否、ニンゲン以外の生き物には、虚栄心や邪念やそんな気はさらさらなくて、他と比較されたら迷惑な話だろうけどさ。第一、迷惑も何も感じないか... そこが凄いんだけど...
まあ、種を越えての僕と紫陽花だけの “相性の問題“ ?だから、仕方無いーってことで。
傲慢です。否、強引です。はい。
*
幼い頃、育った家に紫陽花の株が玄関側にひとつ、庭側にひとつ、2箇所に植わっていた。
実家は急峻な崖をL型に切り盛りした土地に在った。方角的には庭側が真南だったけど、見事に崖を背負っていたので、陽当たりはすこぶる悪かった。平均して午后3時くらいには陽が翳るので、朝の布団干しや洗濯の際の母親は必死だったと思う。
よく布団干しを手伝わされた。と云うより僕は “寝小便小僧” だったので仕方がなかった。
小学校5年生位まで治らなかった。勿論毎日じゃないけど。
尿道の締まりが悪かったのかな? いや違うのだ。へんな夢ばかり見る子供だったから。
(今日は人称を初めて “僕” にしてみたんだけど「僕は寝小便小僧だった」って、微妙に可笑しくない?)
直ぐ隣りに同い年の女の子が住んでいた。
その子に、よく二階の窓の隙間から覗いて視られていた。布団干してるのを!僕が作った世界地図を!(笑)
彼女は「あ、今日は漏らしてないな〜」なんて感じで観察してたのだろうか。
けれど、一度もからかわれた事はなかった。彼女はそんな子じゃなかったんだ。小さい頃から無口な子だった。
4-5歳の頃だったか、その子のお父さんが亡くなった。つまり僕にとったらば隣りのオジさんが。
オジさんは大工だった。隣りで自宅を2階建てに建直している際に屋根から落ちて...。それは日曜だった。念願の自宅建築だったのだろうし、休みなく頑張ってたのかな...
僕の親含めて近所中の大人たちの雰囲気で、何か恐ろしい事が起こったと子供心に察知したけれど、前後の事はよく思い出せない。あまりに驚いて、幼かった自分は直ぐに理解が出来なかった。切り取った写真の様に幾つかの場面を覚えているだけだ。
以来、彼女は益々無口で表情の無い子供になったんだ。
僕らは小学生になった。下校が一緒で別れ際に「バイバイ」とか「じゃね」とか言うくらいで、二人だけじゃ何も話さなかった。「トカゲ捕まえたよ。」って見せたり、「オニヤンマ捕まえたよ」って見せたり、そんな子供ならではの自慢をしたくらいだった。そんな時彼女は、黙って一寸ニコッと微笑むくらいで、せいぜい小さな声で一言「すごいね」と。そんな反応だった。
僕は気管支が弱く、しょっちゅう高熱を出して学校を休んでばかりいる子供だったのだがーそんな時、宿題を届けてくれる女の子が二人居た。やはり幼馴染みで4歳ぐらいから遊んで来た子だった。思えば近所で歳の近い幼馴染みは、見事に全員女子だった。そして僕には妹が居た。だから、魚釣りを覚えるまでは、いつも女の子と遊んでいた記憶ばかりだ。
宿題を届けてくれる二人は明るい子でね。後々色々あって一人はかなり早くに道を踏み外しちゃうんだけど、とにかくその頃は二人共明るくハキハキした子だった。僕の母親もその子たちの事を気に入ってて、家に来ると喜んでいた。
でも、家に上がってその日学校であった事を教えてくれる子は、初めは3人だった。もう一人、隣りの彼女が居たのだ。でも、いつの間にか殆ど来なくなった。
勿論、家族の中だけではあったけれど、「◯◯ちゃんは本当に無口な子だねえ。仕方無いねえ、お父さんがー」って、何度も同じ台詞をまるで呪文の様に口にする自分の母親を、僕は煙たく思っていた。
いつの日からかは判らない。朝、布団を干していると、その子が二階の窓から覗いていた。こっそりと、じゃなく。かといって大っぴらに堂々とじゃなく。10センチ位開けた窓の隙間からこっちを見ていた。
そしてほんの少し笑みを浮かべて、スッと引っ込んじゃうのだった。ゆっくりと窓が閉まる映像も記憶に残っている...
なにせ赤ん坊の頃からの知り合いだから、俺も漏らさずに済んだ日(笑!)には軽く手なんか振ったりしていた。恥ずかしいくせに無視しきれなかったのは、我が生まれもっての性格だろうか、隣りの彼女の “微妙な窓の開け具合” だったのだろうか... いずれにせよ、物心ついた時にはいつも隣りに居たその子に対して、僕の内には早くから「カッコ悪くて当たり前」って開き直れる部分があったのかも知れない。
でもやっぱり子供だった。漏らしちゃった朝に母親にブチブチ言われている際には、それはそれは!顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。妹に対してそこまでの恥ずかしさは感じなかったから、やはり隣りの彼女を、子供なりに “他人” として意識していたのだ。
彼女は背が高いのに、学校では本当に暗くて目立たなくて。僕は内心ではいつも気にしていた。
その頃の僕は既に、自分の悩みや願望に押しつぶされそうで悶々としていた筈なのに、彼女の底知れない冷めた表情は無視しきれるものではなかったのだ。なにせオムツをしていた頃から並んで育った間柄だったからだろう。それから彼女の髪はかなり “くせっ毛” だった。僕も “くせっ毛” だった。子供にとってコレは結構な問題だった。学校では、二人共夫々に、ことあるごと髪のことでかなりからかわれていた。
いわゆる年頃になって、そう...あれは中学1年だった。たった一度だけ、2階の彼女の部屋に入った事があった。
やはり下校が一緒になった際、僕から話しかけたのだった。「◯◯ちゃん、よくエレクトーン弾いてるね。」って。地域の回覧板を届けた際に親からの伝言を伝えたり、道ですれ違った際に軽く手を振ったり、そんな接触以外は実に何年振りの会話らしい会話だった。
彼女が弾くエレクトーンの音色は、もう何年も前から聴こえてきていた。
僕は小6位からどっぷりロック少年だったから、彼女が弾くクラシック的な?練習曲や総てに興味は湧かなかったんだけど、直ぐ隣り、数メートル先で弾いているのだから、音は筒抜けであり。日々の上達が手にとる様に判る訳で。「あ、同じとこ間違えたな...」とか「新しい曲始めたな」とか。
でも、時々は毛色の違う曲を演奏する時があって。あの頃台頭してきた、と云うかカテゴライズされたニューミュージックって奴を。或る時から彼女はその曲だけ、演奏しながら歌う様になっていた。
全然知らない歌だった。でもこっちはメロディーと構成まで覚えてしまった。
話は前後左右してしまうがー自分で確実に “あれが初恋だった” と思える相手は別の女子だった。
その子は、とっくに親の都合で引っ越してしまった。その子も近所に住んでいて、僕はその子とお姉さんと3人で一緒にプールに行く位、仲良く遊んでいた仲だった。
その子が他の男子と仲良く話しているのを見ただけで、悲しい様な(この頃は未だ、“切ない”なんてコトバは知らない)堪らない気持ちになって、その時初めて「ボクはあの子が好きだ」と自意識を持った。
引っ越しの手伝いに行って、最後にお姉さんの提案でトランプで “51” と ”7並べ” をした。その子を乗せたトラックが見えなくなるまで見送ったあの日...僕は又一つ、 『この世の中にはどうにもならない事がある』 と知った。
親の都合の “引っ越しでお別れ” という、子供にはどうにも出来ない事態、その突然の失恋に、十代前半の僕はかなり参ったまま過ごしていた。知らされてからほんの2週間足らずで越してしまった、あの喪失感は凄かった。
だから〜と云うのも乱暴な話だが、隣りの彼女の家にあがる際も冷めた子供だった僕は「本当に久しぶりだよね。」なんて感慨ばかりで。つまりは思春期のときめきみたいな浮いた感情はなかったと思う。自分にとっての隣りの彼女は、あまり口はきかなくとも長い時間一緒に過ごしたという、あくまでも一番古くからの “幼馴染み” だった。
二人だけで部屋に居ても、あんまり話す事もなくて。ひたすら彼女の部屋の奇麗さ、というか “物の少なさ” に驚いていた。その時、彼女の部屋から自分の家を見ている事自体が、なんだか不思議な感じがしていた。
布がかけてある大きな機械みたいのがあって「コレ何?」って尋ねると「ブラザー編み機だよ。」「最近は殆ど使わないけど、前はお母さんがよく編んでいたの。」。彼女には弟が居て、どうやら姉弟ふたりのセーター等はどれもお母さんのお手製だったらしい。
思い切って、ぜひエレクトーンを弾いてくれないかと頼んだ。彼女初めは「恥ずかしいから」と照れていた。でも僕はどうしてもその歌をちゃんとナマで聴いてみたかったのだ。何年も聴いてきたその歌を。
「あの歌が聴きたいな。ホラあの... “あなたを乗せた舟が〜小さくなってゆく〜” とか云う奴さ!」
つい口ずさんでそう言うと、「ああ、イルカね」と少し表情を変えて、彼女はもじもじしながらもエレクトーンの前へ行った。引き込みタイプの蛇腹状のカバーを仕舞うと、その下から白黒の鍵盤が現れた。
僕はもう息を飲むばかりだった。音楽の先生のピアノでも、町内の祭りの古式ゆかしき太鼓でも、僕は演奏前の一瞬の緊張感にドキドキしていたものだ。その時、ヒトの表情や場の空気みたいなものが、一瞬にして変わる。音を出す前のほんの一瞬、全てが止まる様な、あの感じがとても好きだったのだ。
指ならしだったのか何フレーズか音を出した後、彼女は「なんだか恥ずかしいから、こっち見ないでね。」と言って、姿勢を正して、そして弾き出した。イルカの『海岸通』(作詞作曲/伊勢正三)という曲だった。
歌うのを見ていないフリをしながら盗み見た。彼女はとても気持ち良さそうに歌っていた。
びっくりした。それまでに、彼女のー否、同じ年頃のヒトの、そんな表情は一度も見たことが無かった。
驚いたまま、言われた通りに窓の方、僕が漏らした布団を干していたのを彼女が見ていた窓、つまり自分の家の方を向いて、最後まで聴いた。
途中何度か躓きながらも、彼女は一所懸命に演奏し、歌ってくれた。
声は奇麗だし、歌も上手かったと思う。やはりナマ演奏は違う。隣りの家で聴くのと違う。
拍手したかどうか、中1の自分がそんな気の利いた表現はとっさに出来なかったと思う。「すごいよ!すごい、すごいっ」たしか、そんな感じの事しか言えなかったと思う。よく覚えてない。
「アタシこの歌好きなんだ...」と彼女は言い、「ジュンちゃんも最近、あれなんて言うの?ロック? 英語の歌よく聴いてるよね。」と言った。
「俺の親は嫌がるんだよ。特に父親がさ。だから父親が居る時はヘッドフォンで聴いてるんだ。」
「普段、学校帰ってから凄い音でかけてるでしょ?」と彼女が言うので「あ、ごめん。ウルサい?」と尋ねたら、「ううん。アタシよく知らないけど、何だかいいなあっていつも思ってて。」
ああ、そうなのか、良かった、と思った。「ああゆうウルサいのは嫌い」と言われるかと心配した。
思いながら、「やっぱりお互いの家のドタバタから何から筒抜けなんだな...」って思っていた。
僕は、彼女がよく弟を凄い勢いで怒鳴りつけ、執拗に追いつめてしまう隠れた一面を知っていた。
そして...僕が幼い頃から父親に殴られ、よく外の物置小屋に閉じ込められたりしていたのを、そんなドタバタの何もかもを、彼女は知っているのだった。早くに父親を亡くして一層無口になってしまった彼女が、僕と父親のやり取りを長きに渡って、嫌が応でも聞かされていた訳だ。
出された飲み物を飲んで、少し話した後「じゃあ又ね。又、聴かせてね。」そう言って帰った。直ぐ隣りの家に。
その日以降も何も変わらなかった。
僕は実家から、その町から、逃げ出す事ばかり考えながら、四六時中ロックを聴いて、くだらない落書きを描くばかりだったし。隣りの彼女は、学校では相変わらず殆ど声を出さない、無口な女子のままだったし。唯、哀しいかな女性の成長は早い。彼女の胸はどんどん膨らみ、奇麗になっていった。
だけど僕らは相変わらず、学校内ではお互いに口を聞く事も無かったし、町ですれ違っても軽く手を振るくらいだった。
*
中学3年の冬、ジョン・レノンが殺され、あまりのショックに僕は初めての登校拒否をした。
卒業して、家から遠い都立高校に進学した。隣りの彼女は就職した。「何処でもいいから早く働きたい。」と自分から親に言ったらしい。
僕は高校の自由な校風の中、髪をどんどん伸ばし出し、殆ど私服で通い、軽音楽部でバンドの楽しさを覚え、酒を覚え、年上の女性に夢中になった。高校の美術の教育実習生だった。秋田から上京して、トイレ共同のボロアパートで頑張っている彼女に、映画や音楽の趣味の上でも大きな影響を受けた。例えば、パンクやハードロックに夢中だった自分にフリートウッド・マックの渋さを教えてくれたのは彼女だった。彼女も又、父親のしつけと称した暴力が酷く、よく弟と二人で押し入れに逃げ込んで育ってきたヒトだった。しかし父親が亡くなったのを機会に、自分で働きながら通う約束で美術短大に進学し、同時に上京したのだった。故郷に置いてきた弟の事を、時々わざと無表情な顔をして話していた。
けれどもフられたのだ。居酒屋で知り合った年上の公務員と二股をかけられていたのだ。或る日突然、アパートがもぬけの殻だった。
一ヶ月程して手紙が届いた。キャラクターが印刷された便せんに、奇麗事が綴ってあった。ショックだった。やっと何でも話せる相手を見つけたと思っていたから。だが、彼女にとってはそうではなかったのだろう。若い頃の歳の差は、歳をとってからのソレとは異なり、色々な意味で大きかった。
当然学業にもまるで熱が入らず、性懲りも無く彼女の親友と連絡をとった。どうにかして本人と話をするには連絡先を知っているであろう親友にお願いするしか無かった。親友は「会ってお話ししましょう」と言ってくれたのだが、当時の僕には冷静な頭も何の余裕もなく、再三の申し出を断ってしまった。
何度目かの電話でその親友から、彼女は僕との関係をいつも悩んでいて、ずっと相談をしていた事、その詳しい内容を聴いた。他人に相談していたことや他総てに無性に腹が立ち、悲しくて、頭がおかしくなりそうだった。一番悲しかったのは、客観しようにも、唯ゴオゴオと風が唸るばかりの心を抱えた"自分”だった。自分の中でのとりあえずの決着の付け方も判らなかったし、僕はとうとう誰にも相談出来ないまま月日だけ重ねていった。
“どうにもならなさ” を静かに抱いて真面目に学業に勤しむ様な利口な僕ではなかったのだ。自暴自棄になり、毎晩の様にほっつき歩いていた。たまに同級生の家に遊びに行っても話はまるで合わず、次第に軽音部室でも居場所がなくなってきていた。その頃、仲が良かった奴が又、引っ越してしまった。同級生は皆子供に思え、通学は益々苦痛となった。
授業を抜け出して、よく多摩川の土手に寝転んで、ハイライトを吸いながら空や川を見ていた。
デパートで服を万引きをして補導された。電車のキセルや映画館やライブハウスの忍び込みはエスカレートしていった。街では喧嘩ばかりしていた。そしてとうとう、以前から睨み合っていた朝鮮学校の生徒から1対4で酷いリンチを受けた。折からの単独行動が仇となったのだ。
相手が4人では到底かなう筈がなかった。分倍河原駅から近くの公園に連れて行かれる際、何人かの大人とすれ違った際「助けてくれ」と心の中で叫んでいた。「狡いぞっ。サシでいこうじゃないか!」と言ったものの「ウルせえんだよバカ」の一笑で、無抵抗なまま殴る蹴るされた。蹴られた尾てい骨は未だに痛む。大量の鼻血の味を覚えているので、未だに不図、血の味にフラッシュバックする時がある。リンチ間、僕は朦朧とした意識の中で、又一つ理屈じゃない感覚を備えてしまった気がする。行きも帰りも、駅員は見て見ぬ振りをしていた。
親は学校の出席ばかり気にしていた。親は親で仕事に失敗し大変だったらしい。僕は何も知らなかった。知ろうとか理解しようとか思わなかったのだろう。自分のことで精一杯だった。
可愛く思っていた妹のことも何も気を使ってやれぬまま、高校2年の夏に家を出た。
しばらくして母親から電話で、隣りの彼女が結婚した事を聞いた。
相手は、通院が縁で働き出した整骨院の医者らしかった。
「寂しかったんじゃないかねえ... 良かったんじゃないかしら。」と母親が言った。
僕は何も言えなかった。「結婚って....すごいな...もうしちゃうのかよ...」そんな感じだった。でも何となく、とても哀しい気持ちがした。
いつか会う機会があったならば、何と言えばいいのだろうか...
「そうか!おめでとうって言ってやるのだな」と自分に言い聞かせた。
その頃ラジオからは、一日に何度かRCサクセションの歌が聴こえていた。たしか西田敏行の『もしもピアノが弾けたなら』も聴こえていた。
*
僕が育った実家は既にその場所に無い。
紫陽花の株がどうなったのかも知らない。
隣りの彼女のその後も知らない。
昔、あの町には田畑が点在し、僕らはタニシを採り、カジカを刺し、トンボ釣りをした。
野原に蓙を敷き、お医者さんごっこやおままごとをした。
神社の境内で缶蹴りや泥警をして遊んだ。
川を釣り上ればオイカワやアマゴや小さなサンショウウオが居た。
あの町は見事に変わってしまった....工場や大学が誘致され、山が削られ、どこもかしこも分譲住宅が建ち並び、駅前には立派なバスターミナルが出来て、空いている土地は端から駐車場になってしまった。
そこに確かに在った山がそっくりなくなってしまったのを見るのは、何とも言えないオソロシイ虚しさを覚える。
思えばあの町に7-8年立ち寄っていない。電車で数時間で着く場所なのに、『近くて遠い町』がそこに在る。
この季節、どの道を歩いても、紫陽花の花が咲いているからー
ふと耳の奥で、エレクトーンの音色が聴こえた気がして。
(今夜の脳内ミュージック/COLDPLAY "Violet Hill" )
44. 傘/みんな途中#7 [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]
32. M湖の扉/みんな途中(#6) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]
23. 迷森/みんな途中 (#5) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]
19. Mr.K’s Bagel/みんな途中(#4) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]
15. 光の渓の夢/みんな途中(#3) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]
7. トウメイなワタシ/みんな途中(#2) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]
4. 旗日とノラ/みんな途中(#1) [旅・ヒト・ネコ他/『みんな途中』]
それを忘れていた。
今朝七時半頃、K線のK駅を降りたら殆ど人が居ない。歩いてない。
何故だ!
あら?企業ビルディングのエントランスに国旗が...
なぬ〜!休日だったのか!
く、悔しい...
通勤電車内では普段通りにー座れない路線は座れなかったし、座れる路線は座れたし。
第一、ずっとウトウトかボーっとしていて気がつかなんだ...
そうか世間は休日なのか。
未だ眠りの中の御仁も多いのだな。
暖かい布団にぬくぬくなのだな。
く、悔しい...
だいたいが休日ってのはよ〜この国全体が休日な訳でしょうが!
客商売の関わりでもないのに、なんでワタシは働かないかんのさ!
(ハイ、その答えは簡単明瞭「本当にお金が無いから」ですね)
しかし徒歩20分の道程、いつまでもイジケては居られない。
開き直り、空いてる道をぐんぐん歩いた。
だって遅刻しそうだったしさ。
道の途中に隣接した小さな公園のベンチに、
幾重にも服を着込んだ男が座っていた。
横に置いた手提げ袋には、新聞やビニール袋かな一杯だ。
きっと夕べはこの辺りで夜を明かしたんだね。
いつもこの公園で目が合う黒猫が、
男の向かいのベンチ下に居るのを見届けた。
毎朝早く、こんなに陽当たりの悪い公園に居るなんてー
「君はノラだね?」
実はここだけの話、彼女は確実に孕んでいるのだ。
腹の垂れ方がそうだ。
そして、彼女は人に虐められた経験があるよ。
その瞳は野生の眼差しというより、人を恨む鈍い光を放っている。
警戒心がとても強くて、直線的に近寄ると逃げちゃう。
いくら姿勢を低くして優しい声でそっと呼びかけても駄目。
何度か、遅刻してもいいや位にトライしたが駄目だった。
「ぼくもノラなんだけどね...」
期待するのは辞めにした。
触って撫でたかっただけなんだけどな...
結構、キッタナイ系やヨタヨタ系のノラ猫や
他所の家の飼い猫と仲良くなっちゃうワタシなのにな...
彼女、妊娠していてより過敏に警戒してるのかな?
以降ワタシは、彼女がそこに居るか確認だけして通り過ぎている。
どんな子猫が何匹産まれるんだろうね。
どこで産むつもりなんだろ。
今あのお腹の膨らみ方じゃ臨月は近い。
産まれてくる子猫達は、
まだまだ寒い陽気に耐えなきゃならないだろう。
全員は生き延びれないだろう。
子猫の風邪は命取りだし。この辺りはカラスも多いし。
何度も出産に立ち会ったけど、
死んじゃう子は死んじゃう。
母猫も大変だ。
子に飲ます乳が出るように、そしてその内与えるべく食料をー
あの目で警戒しながら探し出すんだね。
彼女に旗日は無いからね。
がんばれシャノアール!
がんばれ世に点在するノラたちよ!